略歴・解説 | 小西家は、もともと阿波国大西郷を拠点とする武家で、大西姓を名乗っていたが、天正年間、讃岐の十河存保に仕えて山田郡西十川に居するようになり、このときから小西に改姓したという。十河氏滅亡のため、農事に携わることとなり、やがて高松松平家の藩政下、西十川村の政所(庄屋)を勤めるようになった。延宝年中に三木郡氷上村(現在の木田郡三木町氷上)丸岡の地に移り住み、宝暦年中には伊兵衛行徳が同村においても政所を勤めている。その後、幕末期の文久元年(1861)から趙五郎秀行(通称は勝次)が、三木郡の大政所(大庄屋)を勤めるようになり、維新後も第1次香川県時代の明治5年(1872)に第14区の戸長を勤めるなど村政に深く関わった。明治期も地主として盛期を維持したことが、瀬戸内海歴史民俗資料館に寄贈されている多くの地券からもうかがえる。
本資料は、小西家の御子孫から収蔵したものである。特に注目すべきは、台指箱に入れられた資料1~5「鑓間銃とその附属品」である。銃砲類や火薬の発明・制作者としても知られている久米栄左衛門通賢は、亡くなる前年の天保11年(1840)に『大成匱銘』を記している。これは高松藩家老木村黙老により、『続聞くまゝの記 寅集 貞』の「久米通賢小傳」中にも筆録されているが、その冒頭に、通賢自製として、十種の銃砲類の箱蓋銘が紹介されている。その中の一つに『再製神火 鑓間銃』があり、資料1の朱書きの箱蓋銘と一致する。また、高松松平家に伝来し当館蔵となった銃砲中に、『御慰再 製内火巣生火仕立 鳥銃』があり、これも先述十種の銃砲類の箱蓋銘に含まれている。この双方の箱を比較してみると、①箱の部材が同種のものであり、②箱蓋銘も朱漆で書かれていること、③さらにオランダ文字の筆記体で「Kumeluu」(久米流)と表記があることなどの共通点が見出せる。これらの点や銃そのもの、附属品の状況から見て、資料1は通賢自製の『再製神火 鑓間銃』といえよう。
まず鑓間銃は、前装(さきごめ式)の雷汞撃発式銃砲である。後部に把手があり、握りしめれば撃針が押し下ろされて中の火薬類に点火し、発射する仕組みとなっている。銃身最末端には「壽」字が陽刻されている。銃身両端の左横側には、槍の柄に取付けるための受け金具があり、把手の銃口寄りに、腰差しのためと思われる金具がある。
次に、附属品には「リマツキ・ヘラ」、「生雷子」と「口薬」の3点がある。「リマツキ・ヘラ」は、リマツキと陰刻された細く小さな匙状の金具とヘラのような金具が紐でつながれているもので、使用法や用途は、具体的にはわからない。火薬の調合や装填、銃の手入れなどに用いられたのかもしれない。
「生雷子」は、小箱に入っている。小箱は、白抜きの文字が刷られた紙で包まれていて、その文字から元は20個入りだったとわかるが、現在は2個のみが残っている。白い紙に包んで端を糸でくくり、5ミリほどの小さなてるてる坊主のような形をしている。やはり通賢の『大来子之記』に、雷子製造について「紙につつみ、きぬ糸にてくくり」という記述があり、これと一致する形状である。
口薬も、紙で包まれた小箱に入っている。その紙には「鑓間銃附口薬入」という手書きがある。径2ミリ程度の灰色をした丸薬が、75粒ほど残っている。これは、生雷子と発射薬の間に装填し、引火を容易にするために使ったらしい。以上鑓間銃とその附属品は、寄贈者によると、御夫人の母方である漆原家から伝えられたそうである。とすれば、元は山田郡三谷村(現在の高松市三谷町)の漆原家のものであったということになるが、それ以前のことは不明である。
資料6のレボルバー式拳銃は、幕末期にもたらされて流布した外国製の拳銃の一つである。時期から見て、先述の小西勝次が入手し、所持していたものと推定される。
資料7から10までは、神仏からの授けものの御守札のうち、どれも高さ1メートル規模の大木札である。うち1枚は石清尾八幡宮のもので、他は「金毘羅さん」のものである。
石清尾八幡宮木札は、剣先型をしており、表にキリーク(阿弥陀如来)の梵字に加え、龜命山五智院と墨書があり、裏にもボロン(十三仏)の梵字がある。石清尾八幡宮の本地仏は阿弥陀如来であり、明らかに神仏分離以前の木札とわかる。年紀がないが、他の3枚と一緒に保管されていたことから、幕末頃のものと考えられる。
金毘羅さんの授けものの木札は、神仏分離の前後で形態や書式にちがいがある。神仏分離以前のものは剣先型で、象頭山本地仏不動明王とその梵字カーンマーンが記されており、別当金光院が出したものである。神仏分離以後のものは、上部の剣先が除かれて水平になり、金刀比羅宮の名称になっている。今回寄贈された3枚もこの形式に従ったものだが、慶応4年正月(9月に明治に改元)、明治2年正月、明治3年正月と連した3年間のものであり、慶応から明治へという時代の移り変わりはもちろん、金毘羅信仰にとっても大きな変革となったこの過渡期をたどることができる絶好の資料である。
ここでは特に明治2年正月の木札を取り上げる。神仏分離令が慶応4年(明治元年・1868)の3月に出され、同年の6月に金毘羅大権現は琴平神社へ、7月にはさらに金刀比羅宮へと改称をしている。この経緯から、約半年後に授けられる明治2年正月のものは、本来なら金光院が出すものではなく、金刀比羅宮が出すものであっていいはずである。ところが、剣先型で金光院名のままである。金光院名の作り置きを大量に作りすぎたのか、それとも、金毘羅大権現の神仏分離は緩やかにすすめられたのだろうか。また、いつから金刀比羅宮のものに変わっていったのか。『金毘羅庶民信仰資料集第1巻』には、明治2年7月の木札が掲載されており、これは金刀比羅宮となっている。まずは、今後明治2年正月を中心とする2年間各月の木札を検討していかねばならない。
小西裕二氏に伝えられた以上4枚の木札は、年紀から見て勝次が小西家当主だったときのものである。勝次は、どうやら毎年正月の初詣に金毘羅参詣を行い、一年間の祈願を行って木札を授かっていたようである。その願文のスケールも大きく「郡中安全」であり、三木郡の大政所を勤めた彼の役職に合致するものである。氷上の小西邸は、江戸時代の金毘羅参詣の街道筋に立地しており、屋敷のそばには金毘羅燈籠も建てられていたという。小西家と金毘羅さんとの関わりがよくうかがえよう。
最後に無銘の短刀だが、これについてもエピソードがある。かつて、寄贈者は、第302海軍航空隊に所属し、整備分隊長として航空機整備の任についていたそうである。このとき同隊第2飛行隊長の清水康男大尉と苦楽を共にし、昭和20年8月、マッカーサー着任前の厚木基地で徹底抗戦を唱える第302隊の隊員たちの慰撫にあたっていた。この終戦時の混乱の後、郷里に戻った氏のもとを、清水大尉はご夫婦で訪ねられ、小西邸の近所に約2ヵ月身を寄せられていた。同年10月に清水夫妻が氏のもとを去り上京するにあたって、感謝気持ちをこめて、この短刀が渡された。そのときの清水氏の談によると、日露戦争時の日本海軍の旗艦であった戦艦三笠の艦砲から拵えられたもので、特攻隊員が賜ったということである。特攻隊員というのが果たして清水氏自身をさすのか、あるいは彼の部下の隊員で、渡すためにとっておいたものなのかは、清水氏が故人となった今となっては知る由もない。ちなみに、贈り主の小澤治三郎は、海軍最後の連合艦隊司令長官兼海軍総司令長官となった人物だが、特攻隊員に短刀を贈るということを、彼がどのような時期に、どのような立場で行っていたのか、同種の事例などを調べてみなければならない。いずれにしても、太平洋戦争で散華した特攻隊員の歴史を物語る資料として、エピソードと共に大切に伝えていきたい。
(香川県歴史博物館『収蔵資料目録 平成10年度』より、一部修正し転載) |