略歴・解説 | 鎌田家について
『白鳥町史』掲載の鎌田家系図によると、藤原鎌足から16代の後裔通清が鎌田家の祖で相模国に住んでいた。同家4代俊長は源義経に仕えた。その後13代俊綱が仙石秀久に召しだされて宇多津に転住し、14代俊忠は生駒親正入国の際召しだされ、高松に転住した。生駒高俊が改易されると16代俊勝は浪人となり、18代俊定にいたって湊村(現白鳥町)に移り住み農業を営むことになる。
寛政期以降、讃岐で糖業が急速に発展すると、鎌田家も甘藷栽培に取り組み、22代六助の代には3町歩ほどの甘藷栽培を営む富農に成長したという。明治以降は安価な砂糖の輸入が始まり糖業は次第に衰退していくが、大川郡では品質改良や技術の進歩を推進するため、明治37年(1904)大川郡糖業同業組合を結成する。この時25代虎太郎は発起人代表を務め、結成後は大正3年まで組合長として指導力を発揮する。24代長五郎・25代虎太郎ともに、数度にわたり県会議員に当選し、また大内銀行・大川製氷株式会社など多くの会社設立にも関与している。
鎌田家資料について
鎌田家資料は文書677点(419件)と書画6幅からなる。当文書は明治初期から昭和30年代のもので、24代長五郎・25代虎太郎に関する資料が中心である。原秩序が保存されていないため、目録は形態により分類し、年代順に配列した。内容的には①長五郎・虎太郎の履歴に関わるもの②鎌田家の経営に関するもの③地図類④絵葉書⑤写真類に大きくわけられる。①には卒業証書・県会議員当選通知をはじめ、寄付に対する褒状など各種の賞状が多く含まれている。共進会・品評会に出品した砂糖の賞状や、帝国博物館へ献納した砂糖に対する褒状、糖業振興への尽力に対する県知事よりの賞状などから明治以降の糖業の再興に指導力を発揮していたことがわかる。また、諸事業への寄付に対する褒状類が多数残されており、財力と政治的な地位を持ち合わせた名望家として地域の発展に努めたことがうかがえる。②の多くは領収書で、その他に明治から昭和にかけての小作台帳や昭和10~20年代の土地年貢取立帳がある。点数は多くないが、大地主としての鎌田家の姿をうかがい知ることのできる資料であるといえる。また領収書の中には講掛金に関するものが見られ、「用会」と称されていたことがわかる。③の大部分を占めるのは明治30~40年代の陸地測量部発行の地図で、香川県内はほとんど網羅されている。何に使用したかは不明であるが、その多くに書込がなされている。④は旅行の記念に買い求めたものらしい観光名所の絵葉書が多数あり、⑤は皇室関係の写真がほとんどである。書画6幅の中の、「鎌田六助画像」には藤沢東ガイの賛があり、「鎌田栄五郎・ツネ画像」には藤沢南岳の賛がある。虎太郎が南岳に師事していたことはよく知られており、東讃の出身で高松藩に仕えた儒学者藤沢親子との関係をうかがい知ることができる。
(香川県教育委員会『歴史博物館整備に伴う収蔵資料目録 平成5・6年度』より、一部修正し転載) |