略歴・解説 | 高松松平家は、徳川御三家の一つ水戸徳川家初代藩主頼房の長男頼重を初代とし、寛永19年(1642)以降11代228年にわたり、高松藩主として東讃岐12万石を領有した。
松平家に伝世した本資料は、国宝「藤原佐理筆詩懐紙」、重要文化財「法華経」8巻など、国宝1件、重要文化財6件15点、重要美術品6件7点をはじめ、書画、武器武具、調度品、古文書・古記録(高松松平家文書)など1,329件5,538点の資料で構成されている。このうち、本群では平成6年度に取得した376件517点の資料について、I書画・絵図類 Ⅱ古文書・古記録類 Ⅲ天盃 Ⅳ道具類に分類して仮目録化した。
美術資料の特徴は、天皇家、将軍家、御三家との交わりによって贈与されたものを多く含むことである。特に頼重の実弟徳川光圀からは前述の美術品をはじめ家宝の数々が譲られている。将軍家からも高い格式をもって扱われ、書画や徳川家康愛用火縄銃銘「日本清尭」などが贈られた。頼重と、従姉東福門院和子を中宮とした後水尾天皇との親交は深く、後西天皇の即位礼に参列したのを機に和歌の添削も受けるようになり、関連の品々が伝世している。このほか、頼重時代の高松城下を描く香川県指定文化財「高松城下図屏風」や幕末期の左近(松平頼該)筆「石清尾八幡宮祭礼図」など城下町の風俗描写に優れた絵画史料も残されている。銃器の中には、8代頼儀に仕え坂出塩田開発など藩政改革にも携わった、科学者久米通賢(栄左衛門)の発明による新式銃など注目すべきものも多い。また、「参勤交代用具」の一部も伝世しており、その用途など今後詳細な研究を行う必要がある。
高松松平家文書は、震災・戦災を免れた大名家の家文書であり、藩政史料は含まれていない。各代の「位記」「宣旨」「口宣案」は完全な形で残されているが、「領知宛行状」については本文は現存せず、案文と目録が伝世する。このことから、「領知宛行状」の本文は江戸屋敷に、案文と目録は国元にと分けて保管していたことが推測される。文書管理については、寛永年間から明治初年にいたる虫干・薬入などを記録した「御判物御目録等入日記」によってうかがうことができ、興味深い。藩政史料の欠如する高松藩の藩政を知るためには、後世の編纂史料が不可欠である。中でも儒学を振興した5代頼恭の時には、儒学者青葉士弘・岡長祐・後藤芝山等によって、「英公実録」「恵公実録」など先代までの藩主の記録(歴世実録)がまとめられた。その後、明治時代になって修史局への史料提供を機に、旧藩士の手により「英公外記」「高松藩記」が編纂されたが、「高松藩記」は稿本のまま松平家に保管されていたものを、昭和4年永念会によって補訂され『増補高松藩記」として刊行された。これらの出典となっている原文書の多くは戦災で散逸しており、現在藩政をうかがい知る貴重な基礎文献になっている。同じ頃、関東大震災での史料散逸を機に編纂された「高松松平氏歴世年譜」も同様の基礎史料である。
(香川県教育委員会『歴史博物館整備に伴う収蔵資料目録 平成5・6年度』より、一部修正し転載) |