略歴・解説 | 昭和20年7月4日未明の高松空襲によって、高松市街の80パーセントは焦土と化した。同年10月26日に高松市は戦災復興委員会を設置し、市街の復興計画の作成に着手した。高松市では既に戦前の昭和3年から都市計画法による都市街路計画が進行していたが、戦災を機にこれを一旦廃して、土地利用の合理化を進めるために、基本的街路計画の根本的再検討と、土地区画整理事業を実施することになった。当初の一次案は、中央通りは幅員100メートル、菊池寛通りも幅員70メートルという壮大な計画であつた。しかし、あまりに理想論に過ぎるということで中央通りを50メートルに、菊池寛通りは60メートルに縮小した案が昭和21年6月5日に決定された。資料70はこうした計画に沿った土地区画整理事業を進めるための基礎資料として昭和21年から約1年かけて測量調査を行って作成された600分の1の地籍図のひとつである。正確な宅地境界線が示された上に、昭和21年の計画による新街路が記入されている。また、資料72は換地位置決定図で、この計画による新しい市街地の区画が描かれたものである。しかし、昭和21年11月に兵庫町・片原町・丸亀町・南新町など商店街の人々を中心とする都市計画反対同盟が結成されたのを皮切りに賛否両論の運動・論議が展開された。結局、その年の12月に計画の見直しが発表され、あらためて昭和23年11月に修正案が決定されるが、中央通りの幅員は36メートル、菊池寛通りは20メートルと更に規模が縮小されたものとなった。従って、資料70・72に見られる復興都市計画の区割りは現在の市街の現況とは一致しない。このほか、高嶋氏からは、平成7年度に氏の父親(水車大工)が使用していた道具類と水車の部品などの寄贈を受けているが、今回、水車製作に用いられたと考えられる部品類と、昭和40年代を中心とした時期に取り組まれていたという養鶏に関わる道具類、および戦後の生活資料などを新たに寄贈された。
(香川県教育委員会『歴史博物館整備に伴う収蔵資料目録 平成9年度』より、一部修正し転載) |