略歴・解説 | 1はじめに本資料は、旧庄屋家に伝わっていたと考えられる文書680件1,026点からなる。原所蔵者及び文書の原秩序・文書群の総数などは不明であるが、収集した時点でも大袋入りの状態やこよりで大きくまとめられた状態は、最近の人の手の入っていない、ほこりや湿気で固まったウブに近いものであった。そこで、文書には一括群の上から順に資料番号を付した。さらに、包紙・袋・括紐などによる一括状況を記録にとどめた。これらの情報は枝番号に反映させ、また内容等欄にも掲載している。
目録化にあたっては、客観的な視点にたった伝来別分類、及び時代順配列などにより閲覧の便宜を図るべきであるが、時間的制約もあり、本目録では資料番号順の配列をとった。
2富岡家について
富岡家については、資料の原所蔵者がわからないうえ、伝世の文書すべてが収集されていないため、不明な点が多い。ここでは、文書の宛所や内容から類推できる範囲で、同家について解説を附す。
文久2年(1862)生まれの富岡氏が明治32年(1899)に認めた「御願書」(資料番号612号)によると、その祖は山城国葛野郡山田庄に住した山田右衛門重則であり、同郡嵯峨清瀧宮で太夫を勤めていたという。十二代あとの弥三右衛門は、元和年中に摂津国堺へ移り、寛永11年(1634)讃岐国高松へ渡ってきた。この時、弥三右衛門の妻方の姓富岡に改姓した。その後、50年の動向は不明であるが、少なくとも貞享元年(1684)までには寒川郡宮西村(現さぬき市造田宮西)に定住し、庄屋を勤めている。
宮西村は、貞享元年村高397石余、天保5年(1834)には586石余、明治5年(1872)の戸数157戸・人口671人の中規模村落であり、高松藩領に属した(『角川日本地名辞典』)。富岡家は代々宮西村の庄屋(政所)を勤め、時には隣村(造田・是弘など)の兼帯庄屋や大庄屋(大政所)も勤めていたようである。
家系図がないため、当主のつながりがよくわからないが、現存の文書中に見られる富岡家の人々の活動時期を列記しておく。
1[富岡]小左衛門 貞享元~享保11年(1684~1726)
2[富岡]兵蔵 享保13~延享元年(1728~1744)
3富岡兵次右衛門 天明6~寛政3年(1786~1791)
4富岡久武 寛保元~天明9年(1741~1789)
5富岡小左衛門 明和2~天保4年(1765~1833)
6富岡万吉 文政7~天保2年(1824~1831)
7富岡兵九郎 文政12~嘉永6年(1829~1853)
8富岡宇八郎 安政6~明治5年(1859~1872)
9富岡○○ 明治3年(1870)
10富岡○○ 明治17~明治32年(1884~1899)
これらの人々のうち、1小左衛門、2兵蔵、3兵次右衛門、5小左衛門、7兵九郎の積極的な活動が看取できるが、特に5小左衛門は兼帯政所(庄屋)・大政所(大庄屋)も勤め、田畑集積も大きかったようである。1小左衛門、2兵蔵のときには名字を名乗っておらず、3兵次右衛門以降に名字・帯刀を許されたものと推定される。五代藩主松平頼恭の行った宝暦改革での農政の転換、また農村構造の変化による庄屋の役割の増大などの問題もあわせて考慮すべきであろう。
富岡家の経営状況を大系的に総括するような帳簿はほとんど残されていないが、4久武(久武と3兵次右衛門は同一人物の可能性もある)のときの富岡家の状況は若干判明するので紹介しておこう。
「内證算用牒」(同652号)によれば、寛保2年(1742)には富岡家は持高101石522合(分家も含む)、林3ヶ所1町8反3畝、家14軒(蔵等含む)を所持し、出店で金融業も営み、村財政の立替えも行っている。他村における持高も含んでいるであろうが、当村の村高を鑑みるとその持高の多さは抜きんでたものと思われる。寛延4年(1751)には同家総持高103石520合(「算用帳」(同653号))と、寛保2年時とほぼ変わらないが、その内訳に「知行高」約20石が含まれている。この頃、前述のような庄屋への行政委任とともに、武士格の付与が行われたものと思われる。ただし、それは新たな采地ではなく、所持地の知行地化という名目上のものであった。
幕末から明治期の文書は少ないが、明治5年(1872)宇八郎戸籍には「父宮西村士族兵九郎」の文字がみえ(同619号)、江戸時代中期以降の武士格化の状況を伝えている。
3富岡家文書について
富岡家文書は、宮西村庄屋富岡家に伝えられていた家文書680件1,026点である。したがって、家文書以外の「年貢算用帳」「村入用帳」「御用留」などいわゆる庄屋文書は含まれていない。このため、同文書から宮西村村政を概観することはかなり困難であるが、同文書の中核をなす多数の「田畑売渡証文」「金銭借用証文」からは、庄屋富岡家を中心とする当時の村落社会の状況が伝わってくる。今回収集した文書は、諸証文や付随する絵図・書状がその一括性を保ったまま流出した資料群と考えられる。
(香川県教育委員会『歴史博物館整備に伴う収蔵資料目録 平成8年度』より、一部修正し転載) |