【解説】大嘗会雑記
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分野分類 CB | 歴史学 |
文化財分類 CB | 図書 |
資料形式 CB | テキストデータベース |
+解説 | 大嘗会雑記 [貴542] 〈外題〉甘露寺親長卿筆/大嘗会雑記/〈文正元年/後土御門院〉 〈見返〉大嘗会雑記〈文正元/今義案尓〉■■■ 〈巻冊〉1軸 〈体裁〉巻子 〈年代〉文正元年(1466) 〈寸法〉縦25.1糎×横1171.8(1226.0)糎 〈奥書〉ナシ 〈箱書〉蓋表:三条西家本/〈文正/元年〉大嘗会雑々記〈甘露寺親長自筆原本/紙背ニ古文書アリ〉 〈解題〉 文正元年(1466)、後土御門天皇大嘗祭を行うに当たって、種々の事柄に関し先例その他を、従二位前権中納言甘露寺親長が記したものである。親長は故実典礼に通じ、当時の実務家的廷臣の中心にいた。親長は文武に優れ、嘉吉3年(1443)に南朝遺臣と称する賊党が宮中に乱入した際には、自ら太刀を抜いて防戦したことは有名な話である。甥に学才・歌才の誉れ高い三条西実隆がおり、応仁の乱後に朝儀の復興を目指した中御門宣胤は親長の娘婿である。 後土御門天皇は寛正5年(1464)7月、後花園天皇の譲位を受けて践祚し、翌年12月に即位した。文正元年に大嘗祭を行う予定であったところ、その年10月に「天下触穢」があり、翌年に延引すべきか、ともされたが、公卿群議の結果、その年の12月に1か月延引して大嘗祭を行うこととなった。そのため、本来10月に行うべき御禊行幸も11月に延引している。当時は治安も悪く、予算も不足し、大嘗祭の準備などには多く滞りがあり、親長を含む公卿たちの努力の末、大嘗祭が斎行できたものと考えられる。 大嘗祭の翌年には応仁の乱が勃発し、新嘗祭などの宮中祭祀は多く中絶する。一代一度の大嘗祭も、後土御門天皇を最後に、貞享4年(1687)の東山天皇大嘗祭まで221年間中絶した。 〈参考〉 ・大野健雄校注『神道大系』朝儀祭祀編5 践祚大嘗祭(神道大系編纂会、昭和60年10月) |
+登録番号(図書館資料ID) | 貴-542 |
資料ID | 143134 |
所有者(所蔵者) | 國學院大學図書館 |
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