内藤広前

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル内藤広前
+ヨミガナ / NAME / 性別ナイトウ ヒロサキ / NAITOU HIROSAKI / 男
+小見出し幕臣(御手先同心)
+別称〔姓〕藤原 【国2】
〔称〕浜次郎 【和】
〔名〕広庭 【和】
〔号〕賢木園 【和】
+生年月日寛政3年<1791> 【国続】
+没年月日慶応2年<1866>9月19日 【国2】
+享年76歳 【国2】(一説に、78歳 【書】)
+生国・住国江戸牛込 【国2】
+典拠国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.7091
+解説■履歴・学問動向
 寛政3年(1791)江戸に生まれる。幕府大番組与力、和学講談所で出役等を務めた。

 幼い頃より読書・学問を好み、史学に長じた。職務の傍ら、国史・律令を学ぶ。壮年、志に従い職を辞して牛込榎町に住し、古典の研究に専心した。文化・文政(1804~1829)年間には、尾張藩主・徳川斉朝から、裏松光世が藤原貞幹らの多大な貢献によって作成された『大内裏図考証』について、その校訂を命じられると、10余年の歳月を費やしてその誤りを正し断片的部分の不足を補い、これに新たに内裏の全図(京城略図・内裏図附中和院・真言院図・八省院図・豊楽院図・太政官図・神祇官図・武徳殿図・大学寮図)9巻を作成して、『大内裏図考証』をより完璧なものにした。また、紀伊国新宮城主・水野忠央の依頼により、忠央が国史・国文・医学関係の貴重書等を刊行した『丹鶴叢書』(収録点数43点、7帙、154冊)の編集に携わった。この編集には、広前のほか、本居内遠、山田常典、小中村清矩らが関係している。伴信友、長澤伴雄、堤朝風、黒川春村等と親しかった。多識多通なことでは、黒川春村とともに「東都の物識り」と称された。
 著作には、『大内裏考証正誤』をはじめ、『国史拾遺』『国史類名』『尊卑分脈考証』や『八代集』の作者の伝記である『八代集作者伝』など、多数がある。
+史資料〔古学 下〕
 内藤広前は、姓は藤原にして、遠祖某なるもの、幕府に仕へて、御先手同心なり。牛込榎木町組屋敷に住せり。少より書ヲ好み、最も史学に長じ、系譜に精し。よみ歌は、得意にあらずして、詠ずることまれなり。人となり温和にして強記なり。壮年にして勤めて辞し、志を所好に専にせられけり。文政のころ、尾州候にて、裏松家の大内裏考証の板を買入れられしが、原本の引書、其他誤謬あるを、校訂すべき由命ぜられ、多年の間、其邸に往来して、校訂成就せり。依て尾州家所蔵の日本紀略、類聚国史などの古本を見る事を得て、自らの本に校合し、其原本を写して家蔵とせり。又大内裏図は、考証に切図のみを載たるにより、古図等を参考して、新に全図九敷を製し、蔵板としたるを、維新の後、其孫某、これを朝廷へ献ぜり。又新宮の水野家にやとはれ、丹鶴類書を編集し、八代集作者の伝を作り、国史拾遺二十巻を著し、(国史拾遺は、国史に入るべき遺事官符などの、政事要略、令集解、其他の書に見えたるを、纂輯せしものなり。其徴をも書くべき心搆へなりしが、纔の草本のみにて果さゞりき)同家にて以前に刻なりし、尊卑文脈の精からざるを訂正せんとせしが、未だ功を終ずして、慶応二年丙寅九月十九日没しぬ。年七十六。二男一女あり。男は皆先達て没し、女は人に適く。伴信友、長沢伴雄、堤朝風、黒川春村など、かたみに親しく交はられたり。蔵書も数百巻ありしが、長子某、家を治めずして、多くは生前に沽却せりと云。歿後、門人伴ノ直清、早川正敏等謀りて、府内赤城社の境内に石碑を建て、行状を知るせり。其文は翁の友人小中村清矩撰すと云。

〔編者補〕
 比能碑波毛与。古学爾勤美志翁乃。事蹟見乍偲登。建鶴石曾。其人氏乎藤原。名乎広前止云弖。遠祖従東能遠乃朝廷爾奉仕在伎。翁。早久仕乎退弖。文書見事乎。所為止志。見波乍下。心袁雲井那須。高仁置天有賀中爾毛。国史律令式等能御典乎読耽利。静祁伎窓乃内爾隠利居弖。衒比求流事乎。不好有斯加杼毛。其名波志毛。世爾芳久漏聞延天。尾張廼殿仁所召弖波。大内裡図考証乎校訂志。新宮乃君爾所誂弖波。丹鶴類書。八代集作者伝乎。作天進伎。大内裡考惣図乎。精細爾考定天。板爾令彫。国史拾遺二十巻邇。年月珥勤美天。齢能末左右爾書畢奴。又姓氏録乃注乎刀。思立都礼抒。得不果奈毛有祁流。惜哉。哀哉。慶応二年止云年能。九月能十九日登云爾。年七十六爾亭。命過奴。其有斯世廼状乎騰。其女登。其孫登邇所嘱天。辞毛不敢。拙伎筆以録者波。翁止魂合有志。小中村清矩 内藤滝口女建。 碑碣既就建之赤城産土神祠傍。
 慶応三丁卯年九月、 感じ、 内藤広房、 森谷純徳、 早川正敏、 伴直清。
+辞書類古学,国書,明治,大事典,名家
-40421 国学関連人物データベース 36 1 CKP000081 内藤広前 NAITOU HIROSAKI  寛政3年(1791)江戸に生まれる。幕府大番組与力、和学講談所で出役等を務めた。

■学問動向
幼い頃より読書・学問を好み、史学に長じた。職務の傍ら、国史・律令を学ぶ。壮年、志に従い職を辞して牛込榎町に住し、古典の研究に専心した。文化・文政(1804~1829)年間には、尾張藩主・徳川斉朝から、裏松光世が藤原貞幹らの多大な貢献によって作成された『大内裏図考証』について、その校訂を命じられると、10余年の歳月を費やしてその誤りを正し断片的部分の不足を補い、これに新たに内裏の全図(京城略図・内裏図附中和院・真言院図・八省院図・豊楽院図・太政官図・神祇官図・武徳殿図・大学寮図)9巻を作成して、『大内裏図考証』をより完璧なものにした。また、紀伊国新宮城主・水野忠央の依頼により、忠央が国史・国文・医学関係の貴重書等を刊行した『丹鶴叢書』(収録点数43点、7帙、154冊)の編集に携わった。この編集には、広前のほか、本居内遠、山田常典、小中村清矩らが関係している。伴信友、長澤伴雄、堤朝風、黒川春村等と親しかった。多識多通なことでは、黒川春村とともに「東都の物識り」と称された。

■著作
著作には、『大内裏考証正誤』をはじめ、『国史拾遺』『国史類名』『尊卑分脈考証』や『八代集』の作者の伝記である『八代集作者伝』など、多数がある。 内藤広前 NAITOU HIROSAKI , 7091 小伝 国伝 全 36012 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 幕臣(御手先同心) 男 ナイトウ ヒロサキ / NAITOU HIROSAKI / 男 ■履歴・学問動向
 寛政3年(1791)江戸に生まれる。幕府大番組与力、和学講談所で出役等を務めた。

 幼い頃より読書・学問を好み、史学に長じた。職務の傍ら、国史・律令を学ぶ。壮年、志に従い職を辞して牛込榎町に住し、古典の研究に専心した。文化・文政(1804~1829)年間には、尾張藩主・徳川斉朝から、裏松光世が藤原貞幹らの多大な貢献によって作成された『大内裏図考証』について、その校訂を命じられると、10余年の歳月を費やしてその誤りを正し断片的部分の不足を補い、これに新たに内裏の全図(京城略図・内裏図附中和院・真言院図・八省院図・豊楽院図・太政官図・神祇官図・武徳殿図・大学寮図)9巻を作成して、『大内裏図考証』をより完璧なものにした。また、紀伊国新宮城主・水野忠央の依頼により、忠央が国史・国文・医学関係の貴重書等を刊行した『丹鶴叢書』(収録点数43点、7帙、154冊)の編集に携わった。この編集には、広前のほか、本居内遠、山田常典、小中村清矩らが関係している。伴信友、長澤伴雄、堤朝風、黒川春村等と親しかった。多識多通なことでは、黒川春村とともに「東都の物識り」と称された。
 著作には、『大内裏考証正誤』をはじめ、『国史拾遺』『国史類名』『尊卑分脈考証』や『八代集』の作者の伝記である『八代集作者伝』など、多数がある。 ないとう ひろさき,藤原,浜次郎,広庭,賢木園 ナイトウ ヒロサキ 〔姓〕藤原 【国2】 〔称〕浜次郎 【和】 〔名〕広庭 【和】 〔号〕賢木園 【和】 〔姓〕藤原 【国2】
〔称〕浜次郎 【和】
〔名〕広庭 【和】
〔号〕賢木園 【和】 寛政3年<1791> 【国続】 9月19日 慶応2年<1866>9月19日 【国2】 76歳 【国2】(一説に、78歳 【書】) 1791 - 1866 武蔵国 武蔵江戸牛込 東京都 江戸牛込 【国2】 江戸牛込 【国2】( 国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.7091 〔古学 下〕
 内藤広前は、姓は藤原にして、遠祖某なるもの、幕府に仕へて、御先手同心なり。牛込榎木町組屋敷に住せり。少より書ヲ好み、最も史学に長じ、系譜に精し。よみ歌は、得意にあらずして、詠ずることまれなり。人となり温和にして強記なり。壮年にして勤めて辞し、志を所好に専にせられけり。文政のころ、尾州候にて、裏松家の大内裏考証の板を買入れられしが、原本の引書、其他誤謬あるを、校訂すべき由命ぜられ、多年の間、其邸に往来して、校訂成就せり。依て尾州家所蔵の日本紀略、類聚国史などの古本を見る事を得て、自らの本に校合し、其原本を写して家蔵とせり。又大内裏図は、考証に切図のみを載たるにより、古図等を参考して、新に全図九敷を製し、蔵板としたるを、維新の後、其孫某、これを朝廷へ献ぜり。又新宮の水野家にやとはれ、丹鶴類書を編集し、八代集作者の伝を作り、国史拾遺二十巻を著し、(国史拾遺は、国史に入るべき遺事官符などの、政事要略、令集解、其他の書に見えたるを、纂輯せしものなり。其徴をも書くべき心搆へなりしが、纔の草本のみにて果さゞりき)同家にて以前に刻なりし、尊卑文脈の精からざるを訂正せんとせしが、未だ功を終ずして、慶応二年丙寅九月十九日没しぬ。年七十六。二男一女あり。男は皆先達て没し、女は人に適く。伴信友、長沢伴雄、堤朝風、黒川春村など、かたみに親しく交はられたり。蔵書も数百巻ありしが、長子某、家を治めずして、多くは生前に沽却せりと云。歿後、門人伴ノ直清、早川正敏等謀りて、府内赤城社の境内に石碑を建て、行状を知るせり。其文は翁の友人小中村清矩撰すと云。

〔編者補〕
 比能碑波毛与。古学爾勤美志翁乃。事蹟見乍偲登。建鶴石曾。其人氏乎藤原。名乎広前止云弖。遠祖従東能遠乃朝廷爾奉仕在伎。翁。早久仕乎退弖。文書見事乎。所為止志。見波乍下。心袁雲井那須。高仁置天有賀中爾毛。国史律令式等能御典乎読耽利。静祁伎窓乃内爾隠利居弖。衒比求流事乎。不好有斯加杼毛。其名波志毛。世爾芳久漏聞延天。尾張廼殿仁所召弖波。大内裡図考証乎校訂志。新宮乃君爾所誂弖波。丹鶴類書。八代集作者伝乎。作天進伎。大内裡考惣図乎。精細爾考定天。板爾令彫。国史拾遺二十巻邇。年月珥勤美天。齢能末左右爾書畢奴。又姓氏録乃注乎刀。思立都礼抒。得不果奈毛有祁流。惜哉。哀哉。慶応二年止云年能。九月能十九日登云爾。年七十六爾亭。命過奴。其有斯世廼状乎騰。其女登。其孫登邇所嘱天。辞毛不敢。拙伎筆以録者波。翁止魂合有志。小中村清矩 内藤滝口女建。 碑碣既就建之赤城産土神祠傍。
 慶応三丁卯年九月、 感じ、 内藤広房、 森谷純徳、 早川正敏、 伴直清。 古学,国書,明治,大事典,名家 史資料・解説 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818) 文政(1818-1830) 天保(1830-1844) 弘化(1844-1848) 嘉永(1848-1854) 安政(1854-1860) 万延(1860-1861) 文久(1861-1864) 元治(1864-1865) 慶応(1865-1868)
資料ID40421

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