谷川士清

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル谷川士清
+ヨミガナ / NAME / 性別タニガワ コトスガ / TANIGAWA KOTOSUGA / 男
+小見出し医家
+別称〔称〕養順 【和】
〔名〕昇 【和】
〔字〕公介 【和】
〔号〕淡斎・昇卯・応竜・卯斎・振々翁・潮翁・恒徳堂・盈科生・振々霊社・森蔭社 【和】琴生糸 【書】
[法号]文芸大英居士 【書】
+生年月日宝永6年<1709>2月26日 【国1】
+没年月日安永5年<1776>10月 10日 【国1】
+享年68歳 【国1】
+生国・住国伊勢国安濃郡籐洞津 【国1】
+生国・住国(現在地名)三重県
+墓地名刑部村福蔵寺 【国1】
+学統樋口宗武,玉木正英,松岡仲良,正親町公通,有栖川宮職仁親王 【和】松岡玄達 【国1】
+典拠国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.6421
+解説■履歴
 伊勢国安濃郡籐洞津の医者・谷川順端(義章)の長男として生まれる。享保20年(1735)、京都遊学後、帰郷して家を継ぎ、医業を営む。津藩藤堂家より15人扶持を給され、門人にも津藩士が多かったという。歿後、大正4年(1914)11月10日、従四位下を贈られた。

■学問動向
医学修行のため、京都に遊学。福井丹波守に医学を学び、また、松岡玄達・正親町公通・松岡雄淵・玉木正英に垂加神道を学び、竹内式部や河北景楨らと親交を結んだ。享保17年(1732)9月27日、24歳のとき、正英より神道免許状を受け、垂加神道の継承者となる。宝暦2年(1752)4月から5年間、歌道を有栖川宮職仁親王に学び、親王に添削を受けた。その時の詠草をまとめた歌集に『恵露草』がある。また、今井似閑の弟子・樋口宗武から万葉学も学んだ。医業の傍ら、森蔭社の霊神号を掲げた森蔭社洞津谷川塾を開いて子弟に儒学・神道を教授し、その門弟には、安芸賀茂郡の唐崎信通・士愛父子、伊勢一志郡の大河内重平・名島桃源、同飯野郡の石井正道などがいる。また子の士逸、孫の士行も、士清の学問を継承した。
+特記事項■『日本書紀通証』
士清は広く和漢の学に通じたが、とくに国史と国語学の研究に尽力した。主著『日本書紀通証』(全35巻)は、卜部兼方『釈日本紀』以降、最初の『日本書紀』全巻の註釈書として、高い評価がなされている。「例言」によれば、寛延4年(1751)3月頃に脱稿し、それから約10年後の宝暦12年(1762)冬に刊行された。巻1は総説で、序・例言・総目・通証(全19項目)・附録(「倭語通音」「仮字正文」「音韻類字」)・舎人親王伝・講国史より成る。このうち附録の「倭語通音」は、最初の用言活用研究として著名である。京都遊学中の本居宣長が、これを読んで士清の学識に深く心を打たれ、明和2年(1756)8月より、書簡を交わし合って互いに疑義を質し合うなど、学問上の交流があったことが知られている。巻2から7は神代巻の註釈で、『釈日本紀』『日本書紀纂疏』などの先行の註釈を挙げて解説するという方法を採るが、全体的に垂加神道説が前面に出た解釈となっている。巻8以降は神武紀以下人代巻の註釈で、ここからは神代巻とは異なり、漢学の知識を縦横に駆使し、和書・漢籍・仏典に至るまで広範な文献を引用して、本文の字義を解説する。とくに漢語の出典を挙げている点は、今日においても多く支持されている。

■『倭訓栞』
また、『倭訓栞』(『和訓栞』ともいう。全93巻)は、『日本書紀通証』以後の士清後半生の大著で、日本最初の50音順による国語辞典である。前編・中編・後編の3部より成り、全93巻82冊、総語数208,975語に及び、安永4年(1775)に編纂が完了した。その第1巻は、主に音訓に関する総説、第2巻より50音順(ただし、「い」「う」「え」を省く)に並べて、あらゆる和訓を網羅する。これに類した辞書は、士清以前に海北若冲の『和訓類林』(こちらは「いろは」順)があり、士清はこの書に範をとったと考えられている。刊行は安政6年(1777)9月(前編45巻)で、士清の歿した翌年である。その後も子孫らによって刊行が続けられ、文久2年(1862)に中編30巻が、明治20年(1887)に至って、野村秋足の補訂により後編18巻が刊行された。雅語・俗語・方言など、収録語の範囲が広く、その説明も穏当と評されている。この他、『勾玉考』(安永2年3月板刻)のように、考古学的な研究も行なっている
+史資料〔古学下〕
 はじめ闇斎派の神道を玉木葦斎に学ばれし。歌は有栖川職仁親王の門人なり。

〔言語学雑誌二〕
        神道免許状
天兒屋命之嫡伝。垂加霊社直授相承之神道。汝篤志克務。是以汝之師文雄。諸伝悉面授口訣畢。汝無親疎之差別。撰器量之輩。宜令伝授 此道焉。於老仏之徒者。不可窺之矣。汝門下。有信実篤志之人。欲授十種神籬之伝。当告文雄。而後授与 斯伝。汝宜守誓約之義。以慎而莫怠者也。
  享保十七年壬子九月廿七日               玉木正英 判
                                      五鰭 花押
    谷川清丈
この時士清廿四歳なり。京都に遊学なし居りしやと推察せらる。「汝之師文雄」とは、何人にや、或は思へらく、葦水草の跋を撰ばれたる松岡文雄にやと、思はるれど明ならず。蓋し文雄は、葦斎の門人にして、淡斎は、当初これに就きて学び、以て葦斎の免許状を得しにや。

〔古学下〕
 人となり気概ある人にて、史伝を諳通し学和漢を兼好古博洽を以て称せらる。最も心を日本紀に潜め、其行文措辞ノ或は儒書に取り、或は仏典に採るの類、皆其本づく所をあげ、広く先哲の説を彙集し、参互撿討して、日本紀通証三十五巻を作らる。嘗て縉紳家の招に応じ、藤堂候も数々其家を訪れしと云。また海北若冲が和訓類林を拡充し、和訓栞をあらはし、古今雅俗の言語を統括す。最有用の書なり。別に勾玉考一冊あり。晩に著書の稿を石櫃に入れ埋め、反故塚と云。
+辞書類古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,本居,大事典,名家
-40401 国学関連人物データベース 36 1 CKP000061 谷川士清 TANIGAWA KOTOSUGA  伊勢国安濃郡籐洞津の医者・谷川順端(義章)の長男として生まれる。享保20年(1735)、京都遊学後、帰郷して家を継ぎ、医業を営む。津藩藤堂家より15人扶持を給され、門人にも津藩士が多かったという。歿後、大正4年(1914)11月10日、従四位下を贈られた。

■学問動向・門人
医学修行のため、京都に遊学。福井丹波守に医学を学び、また、松岡玄達・正親町公通・松岡雄淵・玉木正英に垂加神道を学び、竹内式部や河北景楨らと親交を結んだ。享保17年(1732)9月27日、24歳のとき、正英より神道免許状を受け、垂加神道の継承者となる。宝暦2年(1752)4月から5年間、歌道を有栖川宮職仁親王に学び、親王に添削を受けた。その時の詠草をまとめた歌集に『恵露草』がある。また、今井似閑の弟子・樋口宗武から万葉学も学んだ。医業の傍ら、森蔭社の霊神号を掲げた森蔭社洞津谷川塾を開いて子弟に儒学・神道を教授し、その門弟には、安芸賀茂郡の唐崎信通・士愛父子、伊勢一志郡の大河内重平・名島桃源、同飯野郡の石井正道などがいる。また子の士逸、孫の士行も、士清の学問を継承した。

■『日本書紀通証』
士清は広く和漢の学に通じたが、とくに国史と国語学の研究に尽力した。主著『日本書紀通証』(全35巻)は、卜部兼方『釈日本紀』以降、最初の『日本書紀』全巻の註釈書として、高い評価がなされている。「例言」によれば、寛延4年(1751)3月頃に脱稿し、それから約10年後の宝暦12年(1762)冬に刊行された。巻1は総説で、序・例言・総目・通証(全19項目)・附録(「倭語通音」「仮字正文」「音韻類字」)・舎人親王伝・講国史より成る。このうち附録の「倭語通音」は、最初の用言活用研究として著名である。京都遊学中の本居宣長が、これを読んで士清の学識に深く心を打たれ、明和2年(1756)8月より、書簡を交わし合って互いに疑義を質し合うなど、学問上の交流があったことが知られている。巻2から7は神代巻の註釈で、『釈日本紀』『日本書紀纂疏』などの先行の註釈を挙げて解説するという方法を採るが、全体的に垂加神道説が前面に出た解釈となっている。巻8以降は神武紀以下人代巻の註釈で、ここからは神代巻とは異なり、漢学の知識を縦横に駆使し、和書・漢籍・仏典に至るまで広範な文献を引用して、本文の字義を解説する。とくに漢語の出典を挙げている点は、今日においても多く支持されている。

■『倭訓栞』
また、『倭訓栞』(『和訓栞』ともいう。全93巻)は、『日本書紀通証』以後の士清後半生の大著で、日本最初の50音順による国語辞典である。前編・中編・後編の3部より成り、全93巻82冊、総語数208,975語に及び、安永4年(1775)に編纂が完了した。その第1巻は、主に音訓に関する総説、第2巻より50音順(ただし、「い」「う」「え」を省く)に並べて、あらゆる和訓を網羅する。これに類した辞書は、士清以前に海北若冲の『和訓類林』(こちらは「いろは」順)があり、士清はこの書に範をとったと考えられている。刊行は安政6年(1777)9月(前編45巻)で、士清の歿した翌年である。その後も子孫らによって刊行が続けられ、文久2年(1862)に中編30巻が、明治20年(1887)に至って、野村秋足の補訂により後編18巻が刊行された。雅語・俗語・方言など、収録語の範囲が広く、その説明も穏当と評されている。この他、『勾玉考』(安永2年3月板刻)のように、考古学的な研究も行なっている 谷川士清 TANIGAWA KOTOSUGA , 6421 小伝 国伝 全 35992 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 医家 男 タニガワ コトスガ / TANIGAWA KOTOSUGA / 男 ■履歴
 伊勢国安濃郡籐洞津の医者・谷川順端(義章)の長男として生まれる。享保20年(1735)、京都遊学後、帰郷して家を継ぎ、医業を営む。津藩藤堂家より15人扶持を給され、門人にも津藩士が多かったという。歿後、大正4年(1914)11月10日、従四位下を贈られた。

■学問動向
医学修行のため、京都に遊学。福井丹波守に医学を学び、また、松岡玄達・正親町公通・松岡雄淵・玉木正英に垂加神道を学び、竹内式部や河北景楨らと親交を結んだ。享保17年(1732)9月27日、24歳のとき、正英より神道免許状を受け、垂加神道の継承者となる。宝暦2年(1752)4月から5年間、歌道を有栖川宮職仁親王に学び、親王に添削を受けた。その時の詠草をまとめた歌集に『恵露草』がある。また、今井似閑の弟子・樋口宗武から万葉学も学んだ。医業の傍ら、森蔭社の霊神号を掲げた森蔭社洞津谷川塾を開いて子弟に儒学・神道を教授し、その門弟には、安芸賀茂郡の唐崎信通・士愛父子、伊勢一志郡の大河内重平・名島桃源、同飯野郡の石井正道などがいる。また子の士逸、孫の士行も、士清の学問を継承した。 ■『日本書紀通証』
士清は広く和漢の学に通じたが、とくに国史と国語学の研究に尽力した。主著『日本書紀通証』(全35巻)は、卜部兼方『釈日本紀』以降、最初の『日本書紀』全巻の註釈書として、高い評価がなされている。「例言」によれば、寛延4年(1751)3月頃に脱稿し、それから約10年後の宝暦12年(1762)冬に刊行された。巻1は総説で、序・例言・総目・通証(全19項目)・附録(「倭語通音」「仮字正文」「音韻類字」)・舎人親王伝・講国史より成る。このうち附録の「倭語通音」は、最初の用言活用研究として著名である。京都遊学中の本居宣長が、これを読んで士清の学識に深く心を打たれ、明和2年(1756)8月より、書簡を交わし合って互いに疑義を質し合うなど、学問上の交流があったことが知られている。巻2から7は神代巻の註釈で、『釈日本紀』『日本書紀纂疏』などの先行の註釈を挙げて解説するという方法を採るが、全体的に垂加神道説が前面に出た解釈となっている。巻8以降は神武紀以下人代巻の註釈で、ここからは神代巻とは異なり、漢学の知識を縦横に駆使し、和書・漢籍・仏典に至るまで広範な文献を引用して、本文の字義を解説する。とくに漢語の出典を挙げている点は、今日においても多く支持されている。

■『倭訓栞』
また、『倭訓栞』(『和訓栞』ともいう。全93巻)は、『日本書紀通証』以後の士清後半生の大著で、日本最初の50音順による国語辞典である。前編・中編・後編の3部より成り、全93巻82冊、総語数208,975語に及び、安永4年(1775)に編纂が完了した。その第1巻は、主に音訓に関する総説、第2巻より50音順(ただし、「い」「う」「え」を省く)に並べて、あらゆる和訓を網羅する。これに類した辞書は、士清以前に海北若冲の『和訓類林』(こちらは「いろは」順)があり、士清はこの書に範をとったと考えられている。刊行は安政6年(1777)9月(前編45巻)で、士清の歿した翌年である。その後も子孫らによって刊行が続けられ、文久2年(1862)に中編30巻が、明治20年(1887)に至って、野村秋足の補訂により後編18巻が刊行された。雅語・俗語・方言など、収録語の範囲が広く、その説明も穏当と評されている。この他、『勾玉考』(安永2年3月板刻)のように、考古学的な研究も行なっている たにがわ ことすが,養順,昇,公介,淡斎,昇卯,応竜,卯斎,振々翁,潮翁,恒徳堂,盈科生,振々霊社,森蔭社,琴生糸,文芸大英居士 タニガワ コトスガ 〔称〕養順 【国続】 〔名〕昇 【国1】 〔字〕公介 【国続】 〔号〕淡斎 【国1】昇卯・応竜・卯斎・振々翁・潮翁・恒徳堂・盈科生・振々霊社・森蔭社 【和】琴生糸 【書】 〔諡〕文芸大英居士 【国1】 〔称〕養順 【和】
〔名〕昇 【和】
〔字〕公介 【和】
〔号〕淡斎・昇卯・応竜・卯斎・振々翁・潮翁・恒徳堂・盈科生・振々霊社・森蔭社 【和】琴生糸 【書】
[法号]文芸大英居士 【書】 43887 宝永6年<1709>2月26日 【国1】 10月10日 安永5年<1776>10月 10日 【国1】 68歳 【国1】 1709 - 1776 伊勢国 伊勢国安濃郡籐洞津 三重県 伊勢津 伊勢国安濃郡籐洞津 【国1】 三重県 伊勢国安濃郡籐洞津 【国1】 刑部村福蔵寺 【国1】 樋口宗武,玉木正英,松岡仲良,正親町公通,有栖川宮職仁親王 【和】松岡玄達 【国1】 樋口宗武・玉木正英・松岡仲良・正親町公通・有栖川宮職仁親王 【和】松岡玄達 【国1】 国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.6421 〔古学下〕
 はじめ闇斎派の神道を玉木葦斎に学ばれし。歌は有栖川職仁親王の門人なり。

〔言語学雑誌二〕
        神道免許状
天兒屋命之嫡伝。垂加霊社直授相承之神道。汝篤志克務。是以汝之師文雄。諸伝悉面授口訣畢。汝無親疎之差別。撰器量之輩。宜令伝授 此道焉。於老仏之徒者。不可窺之矣。汝門下。有信実篤志之人。欲授十種神籬之伝。当告文雄。而後授与 斯伝。汝宜守誓約之義。以慎而莫怠者也。
  享保十七年壬子九月廿七日               玉木正英 判
                                      五鰭 花押
    谷川清丈
この時士清廿四歳なり。京都に遊学なし居りしやと推察せらる。「汝之師文雄」とは、何人にや、或は思へらく、葦水草の跋を撰ばれたる松岡文雄にやと、思はるれど明ならず。蓋し文雄は、葦斎の門人にして、淡斎は、当初これに就きて学び、以て葦斎の免許状を得しにや。

〔古学下〕
 人となり気概ある人にて、史伝を諳通し学和漢を兼好古博洽を以て称せらる。最も心を日本紀に潜め、其行文措辞ノ或は儒書に取り、或は仏典に採るの類、皆其本づく所をあげ、広く先哲の説を彙集し、参互撿討して、日本紀通証三十五巻を作らる。嘗て縉紳家の招に応じ、藤堂候も数々其家を訪れしと云。また海北若冲が和訓類林を拡充し、和訓栞をあらはし、古今雅俗の言語を統括す。最有用の書なり。別に勾玉考一冊あり。晩に著書の稿を石櫃に入れ埋め、反故塚と云。 古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,本居,大事典,名家 〔近著 三〕日本書紀通燈,和訓栞,勾玉考,〔慶著 和〕反古冢記,鋸屑譚,〈続〉大日本史料記,恵露草 史資料・解説 宝永(1704-1711) 正徳(1711-1716) 享保(1716-1736) 元文(1736-1741) 寛保(1741-1744) 延享(1744-1748) 寛延(1748-1751) 宝暦(1751-1764) 明和(1764-1772) 安永(1772-1781)
資料ID40401

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