生田万

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名生田万
+読み仮名 / NAME / 性別いくた よろず / IKUTA Yorozu / 男
+別称〔名〕雄、瞭、万、首道麿、菅原道満、大和田図書篤道[道]
〔諱〕国秀[道]
〔字〕救卿、叔良[道]
〔号〕華山、東華、大中道人、東寧山人、桑園主人、榑桑山人、利鎌屋、鏡室、桜園[道]
〔称〕小膳、多門[道]
学統・宗派那波翠園、平田篤胤[道]
+略年譜享和元年(1801) 上州館林藩士・生田作右衛門信勝の長男として生まれる[道]。
文化5年(1808) 藩校に入る。藩の学風を嫌い、独学で儒学を学ぶも、儒学そのものにも懐疑するようになる。『大中道人謾稿』成る[道]。
文政4年(1821) 春、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の著をはじめて読む。これ以後、国学を研究するようになる[道]。
文政7年(1824) 4月13日、平田篤胤に入門。気吹舎に名簿を贈り、誓詩帳に名を列ねる。この頃、同藩香取政徳の娘・鎬と結婚[道]。
文政8年(1825) 4月7日、初めて気吹舎を訪問して篤胤に面会[道]。
文政9年(1826) 『良薬口苦』成る[道]。
文政11年(1828) 春、財政難となっていた藩政への改革意見書を起草。4月9日、『岩にむす苔』と題した藩政改革意見書を提出。7月2日、江戸の気吹舎を訪れる。10月5日、妻子とともに館林を追放される。同月7日、江戸入り。平田家に同居する。篤胤、万を養子とすることにし、篤胤生家の姓・大和田を取って大和田図書篤道、字を叔良と名乗らせ、鐵胤の弟分とする。万、気吹舎の学頭として教授の代理を勤めるようになる。11月14日、伊豆に気吹舎の学風を広めよという篤胤の命で、伊豆に旅立つ[全集]。
文政12年(1829) 1月、長男・衛門死去。3月20日、万夫婦は気吹舎を引き払い、妹の嫁ぎ先である尾崎家へ移る。その後、平田家と離縁。以後、浪人生活となる。*月、赤坂田町に住み、易占で整形を立てる[道]。

天保元年(1830) 長女・由理子が生まれるも、まもなく死去[道]。
天保2年(1831) 正月13日、父・信勝死去。9月、追放後初めて館林に戻り墓参りをする。10月、故郷に近い上州太田に居を定め、寺子屋厚載館を開く。医業で生計を立て始める。次男・宮吉生まれる[道]。
天保5年(1834) 10月、篤胤の著書『大扶桑国考』の跋文を書く。三男・豊治生まれる。江戸の平田家を訪問[道]。

天保6年(1935) この頃、館林の成果に出入りすることを許される[道]。

天保7年(1836) 5月、樋口英哲の招きではじめて越後柏崎に訪れる。9月下旬、妻子とともに柏崎に移住。私塾・桜園を開く[道]。
天保8年(1837) 2月、大阪で大塩平八郎の乱が起こる。6月1日、同志と桑名藩柏崎陣屋を襲撃。惨死。6月3日、妻子も獄中にて死去[道]。
+主要著作生田万『大中道人漫稿』1821年。
生田万『伊米遅能布美』1823年。
生田万『日本伝評論』1824年。
生田万『良薬口苦』1827年。
生田万『岩にむす苔』1828年。
データベースの典拠「道」=伊東多三郎『国学者の道』野島出版、1971年。
「全集」=芳賀登解説・解題『新修生田万全集』第3巻、1986年。
コンテンツ権利区分CC BY-NC
資料ID40338
-110127 50 2020/03/26 kota.saito 本登録 0 JMK000178 生田万 IKUTA Yorozu 生田万 IKUTA Yorozu 享和元年(1801)~天保8年(1837) いくた よろず / IKUTA Yorozu / 男 いくた よろず 〔名〕雄、瞭、万、首道麿、菅原道満、大和田図書篤道[道]
〔諱〕国秀[道]
〔字〕救卿、叔良[道]
〔号〕華山、東華、大中道人、東寧山人、桑園主人、榑桑山人、利鎌屋、鏡室、桜園[道]
〔称〕小膳、多門[道] - - 那波翠園、平田篤胤[道] - - - 享和元年(1801) 上州館林藩士・生田作右衛門信勝の長男として生まれる[道]。
文化5年(1808) 藩校に入る。藩の学風を嫌い、独学で儒学を学ぶも、儒学そのものにも懐疑するようになる。『大中道人謾稿』成る[道]。
文政4年(1821) 春、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の著をはじめて読む。これ以後、国学を研究するようになる[道]。
文政7年(1824) 4月13日、平田篤胤に入門。気吹舎に名簿を贈り、誓詩帳に名を列ねる。この頃、同藩香取政徳の娘・鎬と結婚[道]。
文政8年(1825) 4月7日、初めて気吹舎を訪問して篤胤に面会[道]。
文政9年(1826) 『良薬口苦』成る[道]。
文政11年(1828) 春、財政難となっていた藩政への改革意見書を起草。4月9日、『岩にむす苔』と題した藩政改革意見書を提出。7月2日、江戸の気吹舎を訪れる。10月5日、妻子とともに館林を追放される。同月7日、江戸入り。平田家に同居する。篤胤、万を養子とすることにし、篤胤生家の姓・大和田を取って大和田図書篤道、字を叔良と名乗らせ、鐵胤の弟分とする。万、気吹舎の学頭として教授の代理を勤めるようになる。11月14日、伊豆に気吹舎の学風を広めよという篤胤の命で、伊豆に旅立つ[全集]。
文政12年(1829) 1月、長男・衛門死去。3月20日、万夫婦は気吹舎を引き払い、妹の嫁ぎ先である尾崎家へ移る。その後、平田家と離縁。以後、浪人生活となる。*月、赤坂田町に住み、易占で整形を立てる[道]。

天保元年(1830) 長女・由理子が生まれるも、まもなく死去[道]。
天保2年(1831) 正月13日、父・信勝死去。9月、追放後初めて館林に戻り墓参りをする。10月、故郷に近い上州太田に居を定め、寺子屋厚載館を開く。医業で生計を立て始める。次男・宮吉生まれる[道]。
天保5年(1834) 10月、篤胤の著書『大扶桑国考』の跋文を書く。三男・豊治生まれる。江戸の平田家を訪問[道]。

天保6年(1935) この頃、館林の成果に出入りすることを許される[道]。

天保7年(1836) 5月、樋口英哲の招きではじめて越後柏崎に訪れる。9月下旬、妻子とともに柏崎に移住。私塾・桜園を開く[道]。
天保8年(1837) 2月、大阪で大塩平八郎の乱が起こる。6月1日、同志と桑名藩柏崎陣屋を襲撃。惨死。6月3日、妻子も獄中にて死去[道]。 - 生田万『大中道人漫稿』1821年。
生田万『伊米遅能布美』1823年。
生田万『日本伝評論』1824年。
生田万『良薬口苦』1827年。
生田万『岩にむす苔』1828年。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - 「道」=伊東多三郎『国学者の道』野島出版、1971年。
「全集」=芳賀登解説・解題『新修生田万全集』第3巻、1986年。 - ? 1

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