今泉定助
| 大分類 | 明治期国学・神道・宗教関係人物データベース |
|---|---|
| 分野分類 CB | 宗教学・神道学 |
| 人名 | 今泉定助 |
| +読み仮名 / NAME / 性別 | いまいずみ さだすけ / IMAIZUMI Sadasuke / 男 |
| +別称 | 〔姓〕佐藤[略年譜] 〔名〕定介[略年譜] 〔号〕竹廼舎[正伝研究] |
| +生年月日 | 文久3年(1863)2月9日[略年譜] |
| +没年月日 | 昭和19年(1944)9月11日[略年譜] |
| 学統・宗派 | 山田信胤、丸山作楽、田中頼庸、川面凡児[正伝研究] |
| +研究書・伝記 | 丸山正彦『丸山作楽伝』忠愛社、1899年。 国書刊行会編刊『国書刊行会出版目録』1909年。 丸山善彦著刊『丸山正彦伝』1915年。 『古事類苑総目録・索引』神宮司庁、1914年。 金谷真『川面凡児先生伝』みそぎ雑誌社、1929年。 皇典講究所編刊『皇典講究所五十年史』1932年。 入江湑『丸山作楽』さくら会、1944年。 『国史文献開設』朝倉書店、1957年。 『日本大学七十年略史』日本大学、1959年。 岡田米夫編『東京大神宮沿革史』東京大神宮、1960年。 日本大学今泉研究所編刊『今泉定助先生を語る』1969年。 日本大学今泉研究所編刊『今泉定助先生を語る(続編)』1969年。 日本大学今泉研究所編刊『日本人の忠誠心について』1969年。 日本大学今泉研究所編刊『今泉定助先生研究全集』1~3、1969・1970年。 国学院大学八十五年史編纂委員会編『国学院大学八十五年史』国学院大学、1970年。 石田圭介編著『近代知識人の天皇論』日本教文社、1987年。 今泉定助先生五十年祭記念事業実行委員会編『源泉への回帰―今泉定助先生五十年祭記念誌』新生創販、1994年。 国学院大学校史資料課編『国学院大学百年史』上、国学院大学、1994年。 葦津珍彦選集編集委員会編『葦津珍彦選集』3、神社新報社、1996年 『川面凡児先生之偉業と年譜』刊年不詳。 |
| +研究論文 | 葦津珍彦「帝国憲法時代の神社と宗教」『明治維新神道百年史』2、神道文化会、1966年。 阪本是丸「神道・政教論解題」葦津珍彦選集編集委員会編『葦津珍彦選集』1、神社新報社、1966年。 葦津珍彦「神道学史上の今泉定助先生」『日本大学今泉研究所紀要』1、1983年。 西岡和彦「大倉邦彦の神道論」『大倉山論集』50、2004年。 西矢貴文「大正期の葦津耕次郎」『神道宗教』204・205、2007年。 坪内隆彦「日本文明の先駆者(4)今泉定助」『月刊日本』123、2008年。 昆野伸幸「近代日本における祭と政―国民の主体化をめぐって」『日本史研究』571、20103年。 昆野伸幸「日本主義の系譜―近代神道論の展開を中心に」『岩波講座 日本の思想』1、2013年。 藤田大誠『帝都東京における神社境内と「公共空間」に関する基礎的研究科学研究費補助金((基礎研究C)研究成果報告書 平成22年度24年度)』藤田大誠、2013年〔昆野伸幸による今泉に関する報告を収録〕。 川島啓介「今泉定助と西田幾多郎の世界新秩序論」『神道研究集録』28、2014年。 「公開シンポジウム 大正・昭和前期の神道と社会」『明治聖徳記念学会紀要』復刊51、2015年。 川島啓介「今泉定助の「成る」について―日本語「なる」との比較を通して」『明治聖徳記念学会紀要』復刊52、2015年。 武田幸也「今泉定助の思想と皇道発揚運動」阪本是丸責任編集・國學院大學研究開発推進センター編『昭和前期の神道と社会』弘文堂、2016年。 |
| +事典・略伝等 | 宮井鐘次郎『御即位記念神道宝典』神風会出版部、1916年。 「今泉定助先生の雄姿」『神社新報』375、1954年。 行弘糺編『葦津耕次郎追想録』私家版、1970年。 神社新報社編刊『神道人名辞典』、1986年。 安津素彦・梅田義彦監修『神道辞典』神社新報社、1987年(復刻版)。 「今泉定助翁五十年祭を斎行」『國學院大學學報』407、1994年。 國學院大學日本文化研究所編『神道事典』弘文堂、1994年。 薗田稔・橋本政宣編『神道史大辞典』吉川弘文館、2004年。 |
| +略年譜 | 文久3年(1863) 2月9日、今泉伝吉の三男として現在の宮城県白石市桜小路に生まれる[略年譜]。 明治3年(1870) 白石城下の寺子屋飯田塾に通う[略年譜]。 明治6年(1873) 5月、白石小学校に入学[略年譜]。 明治7年(1874) 7月、この頃、白石神明社祠家佐藤広見の養子となる。「佐藤定介」と改名[略年譜]。 明治10年(1877) 白石(上級)小学校卒業。この頃、郷土の国学者・山田信胤の教えを受ける[略年譜]。 明治12年(1879) 4月、上京し、神道事務局生徒寮に入学。国語・漢文科修業[略年譜]。 明治13年(1880) 丸山作楽に入門[略年譜]。 明治15年(1882) 東京大学文学部附属古典講習科国書課に入学[略年譜]。 明治19年(1886) 9月、同大学を卒業。12月、東京学士院編纂委員を嘱託され、『古事類苑』の編集に従事[略年譜]。 明治20年(1887) 4月、東京府中学校を嘱託される[略年譜]。 明治21年(1888) 4月、文部省から師範学校・中学校国語科教員免許状を授与される。同年、皇典講究所附設の補充中学(後の共立中学)の教頭となる[略年譜]。 明治22年(1889) 4月、東京府から小学校教員検定試験委員を嘱託される[略年譜]。 明治23年(1890) 4月、『古事類苑』編纂委員を辞職。國學院創設に携わる。11月、國學院の開設と同時に講師就任。12月3日、佐藤家と離縁して今泉姓に復す[略年譜]。 明治24年(1891) 4月、同人社講師を嘱託される。9月、共立中学校教頭に就任。10月、畠山健と共編で『百家説林』を出版。11月、『教育勅語衍義』を著す[略年譜]。 明治25年(1892) 7月、小石川区学務委員長に推薦される[略年譜]。 明治26年(1893) 7月、早稲田専門学校講師を務める[略年譜]。 明治27年(1894) 4月、東京府城北中学校校長に任ぜられる。この頃、自宅で西江義塾を開く[略年譜]。 明治30年(1897) 9月、國學院学監補に就任[略年譜]。 明治31年(1898) 8月、東京府城北中学校長を辞職。同校商議員を嘱託される[略年譜]。 明治32年(1899) この頃、國學院と神宮皇學館の合併に尽力するが失敗。11月、神宮奉斎会教校講師を務める[略年譜]。 明治33年(1900) 8月、神宮奉斎会評議員に推薦される[略年譜]。 明治35年(1902) 3月、國學院学監と東京府城北中学校商議員を辞職。同月、吉川弘文館の編輯監督を嘱託される[略年譜]。 明治38年(1905) 9月、神宮奉斎会宮城本部監督に就任。11月、国書刊行会を起こす[略年譜]。 明治39年(1906) 3月、病気にかかり休職[略年譜]。 明治41年(1908) 12月、神宮奉斎会宮城本部長を命じられる[略年譜]。 明治44年(1911) 9月、内務省から神宮奉斎会理事を命じられる。12月、皇典講究所協議員および評議員を嘱託される[略年譜]。 大正元年(1912) 5月、神宮大麻頒布準備委員に就任。同月、神宮奉斎会新潟本部長を命じられる。9月、神宮神部署主事仰せつけられる。同月、神宮神部書新潟支署長に補せられる[略年譜]。 大正2年(1913) 2月、従七位に叙せられる[略年譜]。 大正5年(1916) 5月、神宮神部署東京支署長に転補[略年譜]。 大正6年(1917) 初めて川面凡児による禊に参加〔大正10年前後[今泉定介先生を語る]、大正8~10年[正伝研究]との説もあり〕[略年譜] 大正7年(1918) 3月、正七位に叙せられる。7月、皇典講究所理事に推薦される[略年譜]。 大正10年(1921) 5月、神宮奉斎会会長に推薦される[略年譜]。 大正11年(1922) 4月、神宮神部署主事休職となる。7月、神社調査会委員を嘱託される[略年譜]。 大正12年(1923) 4月、全国神職会幹事長に推薦される[略年譜]。 大正13年(1924) 1月、教化団体連合会理事に推薦される。4月、頭山満、葦津耕次郎とともに敬神護国団を創立。9月、全国神職会幹事長を辞職。12月、皇典講究所理事に再任される[略年譜]。 大正14年(1925) 5月、神宮奉斎会会長に再選。11月、神宮奉斎会内に斯道懇話会を設立[略年譜]。 昭和2年(1927) 5月、神宮奉斎会神殿に八神を奉斎[略年譜]。 昭和3年(1928) 3月、日本皇政会を創立し、会長に推薦される。5月、神宮奉斎会会長に三選。12月、神社制度調査会委員を嘱託される[略年譜]。 昭和7年(1932) 12月1日、古稀祝賀会。「今泉定助」の名に復す[略年譜]。 昭和8年(1933) 5月、神宮奉斎会会長に四選される。9月、皇道発揚会を創立し、会長に就任[略年譜]。 昭和9年(1934) 4月、月刊機関誌『皇道発揚』を創刊。9月18日、東京地方裁判所において血盟団事件の特別弁護を行う[略年譜]。 昭和10年(1935) 満州国皇帝に対し、「帝王と祭祀の精神」について御進講[略年譜]。 昭和12年(1937) 5月、神宮奉斎会会長に五選される。6月、日本大学に皇道研究所を開設。8月、内務省神社局参与を仰せつけられる[略年譜]。 昭和13年(1938) 4月、日本大学皇道研究所の運営で皇道学院を開講し、学院長に就任[略年譜]。 昭和14年(1939) 8月、内務省神社局参与を仰せつけられる[略年譜]。 昭和15年(1940) 2月、大阪に皇道産業会が設立され、毎月講義を行う。5月国民精神総動員本部顧問に推薦される。8月、財団法人皇道社を創立し、総裁に就任[略年譜]。 昭和16年(1941) 5月、神宮奉斎会会長に六選される。6月、神祇院参与を仰せつけられる[略年譜]。 昭和17年(1942) 2月、『皇道発揚』に掲載された「皇道史観の展開」が発禁となる。9月15日、郷里の白石神明社境内に頌徳碑、および桜小路の生家跡に誕生碑が建設される[略年譜]。 昭和18年(1943) 8月、大政翼賛会興亜総本部顧問を嘱託される[略年譜]。 昭和19年(1944) 9月11日、心臓性喘息から尿毒症を併発して帰幽[略年譜]。 |
| +著作目録類 | 今泉研究所編「今泉定助先生著作目録」日本大学今泉研究所編刊『今泉定助先生研究全集』1、1969年。 |
| +主要著作 | 『毉道百首』誠之堂、18991901年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877643〕。 『国体観念』教化団体連合会、1925年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964131〕。 『文献と行事』大倉精神文化研究所、1933。 『皇道の真髄』東方書院、1934〔『日本宗教講座』の一つ。佐野豊『神理教』と合本〕。 『国体原理』立命館出版部、1935年。 『皇道精神を以て思想界を浄化せよ』皇道発揚会、1935年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1093464〕。 『国体の原理』清明会、1937。 『大祓講義』大倉精神文化研究所、1938年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040185〕。 『皇道論叢』桜門出版部、1942年。 『世界皇化の聖業』皇道社、1942。 |
| +キーワード(1) | 神道事務局 |
| +キーワード(2) | 東京大学古典講習科 |
| +キーワード(3) | 皇典講究所(國學院) |
| +キーワード(4) | 神宮皇学館 |
| +キーワード(5) | 神宮教院(神宮教、神宮奉斎会) |
| +キーワード(6) | 神社局 |
| +国学関連人物データベース | http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=42192 |
| データベースの典拠 | 「略年譜」=今泉研究所編「今泉定助先生略年譜」日本大学今泉研究所編刊『今泉定助先生研究全集』1、1969年。 「今泉定助先生を語る」=葦津珍彦「今泉定助先生を語る」日本大学今泉研究所編刊『今泉定助先生研究全集』1、1969年。 「正伝研究」=高橋昊「今泉定助先生正伝研究」日本大学今泉研究所編刊『今泉定助先生研究全集』1、1969年。 |
| コンテンツ権利区分 | CC BY-NC |
| 資料ID | 40307 |
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