松山高吉

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名松山高吉
+読み仮名 / NAME / 性別まつやま たかよし / MATSUYAMA Takayoshi / 男
+別称〔称〕耶須士・一郎[和学者総覧]
〔名〕篤之[和学者総覧]
+生年月日弘化3年(1846)12月10日[伝記]
+没年月日昭和10年(1935)1月4日[伝記]
学統・宗派平田鐵胤、黒川真頼[伝記]
+研究書・伝記溝口靖夫編著『松山高吉』松山高吉記念刊行会、1969年
海老沢有道『新訂増補版 日本の聖書―聖書和訳の歴史』日本キリスト教団出版局、1983年
☆溝口靖夫編『松山高吉―伝記・松山高吉』大空社、1996年〔松山高吉記念刊行会1969年刊行書の復刻版〕
林正樹『聖歌・讃美歌の宣教思想―松山高吉におけるエキュメニズムの萌芽』かんよう出版、2013年
+研究論文関根文之助「松山高吉の神道論」『神道宗教』88、1977年
関根文之助「「神道」における松山高吉の思想」『高千穂論叢』531、1978年
前田季男「同志社建学の師父新島襄と松山高吉の理念と友情」『歴史研究』463、2004年
津上智実「歌の力を考える―讃美歌412番「わがやまとの」の場合」『論集(神戸女学院大学)』611、2014年
洪伊杓「松山高吉と海老名弾正の神道理解に関する比較分析」『基督教学研究』34、2014年
洪伊杓「松山高吉と植村正久の関係形成過程とその意味」『キリスト教史学』69、2015年
+事典・略伝等『新潟県大百科事典』別
卜部幾太郎編「愛の賜物・松山高吉」『聖書に導かるる人々』アルパ社書店、1928年
三松俊平「松山高吉と植村正久」『植村先生の思出』アルパ社書店、1935年
田中豊次郎「松山高吉翁の貢献」『聖書成長史話』基督教書類会社、1935年

*国史大辞典、日本人名大辞典、和学者総覧
+略年譜弘化3(1846)年 12月10日、越後国糸魚川に松山吉輔と登の四男として生まれる[伝記]。
明治2(1869)年 6月、上京。7月、白川家学館で国史や格式等を研究。神山四郎に就いて経学を学ぶ。11月、東京に移り、白川資訓神祇大副の家に寓居[伝記]。
明治4(1871)年 黒川真頼の家に同居して国学を学ぶ。伊能穎則に就いて和漢の史伝を研究[伝記]。
明治5(1872)年 2月19日、神戸におもむきグリーンに入門[伝記]。
明治7(1874)年 4月19日、受洗し、摂津第一公会を設立[伝記]。
明治12(1879)年 11月3日、新約聖書の翻訳が完了(最終原稿は12月2日完成)[伝記]。
明治13(1880)年 6月4日、神戸公会牧師の就任式が行われる[伝記]。
明治19(1886)年 春、一致・組合両教会共同の『新撰讃美歌』委員に就任[伝記]。
明治20(1887)年 10月末、旧約聖書の翻訳が完結。12月2日、平安教会の牧師に就任[伝記]。
明治21(1888)年 5月、『新撰讃美歌』が完成し、出版[伝記]。
明治23(1890)年 4月2日、日本基督伝道会社社長に選挙される[伝記]。
明治24(1891)年 同志社に移り、講義を行う[伝記]。
明治29(1896)年 9月1日、平安女学院に就任[伝記]。
明治32(1899)年 5月、再び同志社の教職に就く[伝記]。
明治33(1900)年 秋、各派共通讃美歌の編纂委員に就く[伝記]。
明治39(1906)年 11月、同志社社長代理に就任[伝記]。
昭和10(1935)年 1月4日、逝去[伝記]。
+主要著作松山高吉「人は二人の主に事ふること能はず」『反響 説教演説集』4、1888年
松山高吉「なんぢら先づ神の國と其義を求めよ然ば此等の物は皆なぢらに加へらるべし」『反響 説教演説集』8、1889年
松山高吉『家の教へ』江藤書店、1886年
松山高吉『京都名所と美術の案内』上・下、田中治兵衛、1895年
+キーワード(1)気吹舎
+国学関連人物データベースhttp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=50306
データベースの典拠「伝記」=溝口靖夫編『松山高吉―伝記・松山高吉』大空社、1996年。
コンテンツ権利区分CC BY-NC
資料ID40285
-106942 50 2018/02/27 kota.saito 本登録 0 JMK000124 松山高吉 MATSUYAMA Takayoshi 松山高吉 MATSUYAMA Takayoshi 弘化3年(1846)〜昭和10年(1935) まつやま たかよし / MATSUYAMA Takayoshi / 男 まつやま たかよし 〔称〕耶須士・一郎[和学者総覧]
〔名〕篤之[和学者総覧] 弘化3年(1846)12月10日[伝記] 昭和10年(1935)1月4日[伝記] 平田鐵胤、黒川真頼[伝記] 溝口靖夫編著『松山高吉』松山高吉記念刊行会、1969年
海老沢有道『新訂増補版 日本の聖書―聖書和訳の歴史』日本キリスト教団出版局、1983年
☆溝口靖夫編『松山高吉―伝記・松山高吉』大空社、1996年〔松山高吉記念刊行会1969年刊行書の復刻版〕
林正樹『聖歌・讃美歌の宣教思想―松山高吉におけるエキュメニズムの萌芽』かんよう出版、2013年 関根文之助「松山高吉の神道論」『神道宗教』88、1977年
関根文之助「「神道」における松山高吉の思想」『高千穂論叢』53-1、1978年
前田季男「同志社建学の師父新島襄と松山高吉の理念と友情」『歴史研究』46-3、2004年
津上智実「歌の力を考える―讃美歌412番「わがやまとの」の場合」『論集(神戸女学院大学)』61-1、2014年
洪伊杓「松山高吉と海老名弾正の神道理解に関する比較分析」『基督教学研究』34、2014年
洪伊杓「松山高吉と植村正久の関係形成過程とその意味」『キリスト教史学』69、2015年 『新潟県大百科事典』別
卜部幾太郎編「愛の賜物・松山高吉」『聖書に導かるる人々』アルパ社書店、1928年
三松俊平「松山高吉と植村正久」『植村先生の思出』アルパ社書店、1935年
田中豊次郎「松山高吉翁の貢献」『聖書成長史話』基督教書類会社、1935年

*国史大辞典、日本人名大辞典、和学者総覧 弘化3(1846)年 12月10日、越後国糸魚川に松山吉輔と登の四男として生まれる[伝記]。
明治2(1869)年 6月、上京。7月、白川家学館で国史や格式等を研究。神山四郎に就いて経学を学ぶ。11月、東京に移り、白川資訓神祇大副の家に寓居[伝記]。
明治4(1871)年 黒川真頼の家に同居して国学を学ぶ。伊能穎則に就いて和漢の史伝を研究[伝記]。
明治5(1872)年 2月19日、神戸におもむきグリーンに入門[伝記]。
明治7(1874)年 4月19日、受洗し、摂津第一公会を設立[伝記]。
明治12(1879)年 11月3日、新約聖書の翻訳が完了(最終原稿は12月2日完成)[伝記]。
明治13(1880)年 6月4日、神戸公会牧師の就任式が行われる[伝記]。
明治19(1886)年 春、一致・組合両教会共同の『新撰讃美歌』委員に就任[伝記]。
明治20(1887)年 10月末、旧約聖書の翻訳が完結。12月2日、平安教会の牧師に就任[伝記]。
明治21(1888)年 5月、『新撰讃美歌』が完成し、出版[伝記]。
明治23(1890)年 4月2日、日本基督伝道会社社長に選挙される[伝記]。
明治24(1891)年 同志社に移り、講義を行う[伝記]。
明治29(1896)年 9月1日、平安女学院に就任[伝記]。
明治32(1899)年 5月、再び同志社の教職に就く[伝記]。
明治33(1900)年 秋、各派共通讃美歌の編纂委員に就く[伝記]。
明治39(1906)年 11月、同志社社長代理に就任[伝記]。
昭和10(1935)年 1月4日、逝去[伝記]。 - 松山高吉「人は二人の主に事ふること能はず」『反響 説教演説集』4、1888年
松山高吉「なんぢら先づ神の國と其義を求めよ然ば此等の物は皆なぢらに加へらるべし」『反響 説教演説集』8、1889年
松山高吉『家の教へ』江藤書店、1886年
松山高吉『京都名所と美術の案内』上・下、田中治兵衛、1895年 気吹舎 - - - - - - - 文化~慶応 明治0年代 明治10年代 明治20年代 明治30年代 明治40年代 大正 昭和 http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_ckp&data_id=45904 - 「伝記」=溝口靖夫編『松山高吉―伝記・松山高吉』大空社、1996年。 - 1

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