赤松連城

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名赤松連城
+読み仮名 / NAME / 性別あかまつ れんじょう / AKAMATSU Renjo / 男
+別称〔幼〕宇三郎[真宗人名事典]
〔諱〕連城[真宗人名事典]
〔号〕榕隠、円通道人、聴泉[真宗人名事典]
〔諡〕円通院[真宗人名事典]
+生年月日文久12年(1841)年1月17日[年譜]
+没年月日大正8年(1919)7月20日[年譜]
学統・宗派浄土真宗(本願寺派)
+研究書・伝記☆本願寺史料研究所編『本願寺史』3、浄土真宗本願寺派宗務所、1971年。
☆「赤松連城」研究会編『赤松連城資料』上中下、本願寺出版部、1982〜1984年。
+研究論文平田厚志「幕末防長二州「真宗一派風儀改正」運動」『竜谷大学仏教文化研究所紀要』22、1983年。
平田厚志「赤松連城の護法思想」日野賢隆編『近代真宗史の研究』永田文昌堂1987年。
高石史人「赤松連城における仏教と慈善」佐藤三千雄編『知と信』永田文昌堂、1994年。
高石史人「近代真宗教団と慈善—赤松連城の慈善観」『仏教福祉への視座』永田文昌堂、2005年。
深見秦孝「仏教系生命保険会社の生成について」『保険学雑誌』602、2008年。
安渓遊地他編「明治初期に仏教を救った山口の四傑僧」『山口県立大学学術情報』5、2012年。
徳広圭子「濃尾大地震と児童救済事業—浄土真宗本願寺派の動向を中心に—」『岐阜聖徳学園大学短期大学部紀要』47、2015年。
+事典・略伝等山内脩謙『明治大正傑僧秘談』大雄閣、1929年。
常光浩然『近代仏教界の人間像』世界仏教教会、1962年。
常光浩然『明治の仏教者 上下』(春秋社、19681969年)。
日本仏教人名辞典編纂委員会編『日本仏教人名辞典』法蔵館、1992年。
柏原祐泉・薗田香融・平松令三監修『真宗人名辞典』法蔵館、1999年。
+略年譜天保12年(1841) 1月17日、加賀国金沢大工町に扇箱製造を生業とする佐助・梅の3男として生まれた。幼名は宇三郎[年譜]。
弘化3年(1846) 金沢西勝寺で養育を受け、藩校明倫堂で学んだ。また、越中富山願称寺で得度している[年譜]。
嘉永2年(1849) 12月1日、若狭妙寿寺に住していた栖城に入門する[年譜]。
安政3年(1856) 12月16日、咸宜園に入塾し、広瀬青村のもとで儒学を学ぶ[年譜]。
万延元年(1860) 肥前教宗寺の住職となっていた栖城が三業派説諭のために熊本へ赴くところへ随従する。その際に島地黙雷に出会い、対論を行ったが、勝敗は決さなかったとされる[年譜]。
文久3年(1863) 周防国徳山徳応寺赤松真成の養子となって入寺し、千代野と結婚[年譜]。
慶応元年(1865) 長女安子が誕生。所用で九州に赴き、島地黙雷の依頼により、彼の『送葬論』への序文を秋月橘門へ依頼する[年譜]。
慶応2年(1866) 「上国探索の為」自坊を留守にしていたが、大洲鉄然・三国管嶺・芥川義天等による防長二州「真宗一派風儀改正」運動へ秋以降参画。鉄然・島地黙雷等と藩内を巡回する[年譜]。
慶応3年(1867) 「風儀改正」運動推進のため、藩内各地を巡回。『改正諭言』を著す[年譜]。
慶応4年・明治元年(1868) 6月、島地黙雷等が清光寺学校の生徒で僧兵団を組織し、引率上洛を計画。不要となり取りやめた。連城は「東上」しており不在。7月、島地黙雷・白鳥唯唱等が「長防二州総代」として上洛し、連城も合流。常見寺明朗等を加えて本山改革の推進について論議する。連城は興正寺摂信と接触し、本山改革に向けての情報収集を行う。また、宇和島大隆寺住職の韜谷を摂信へ紹介し、諸宗同徳会盟の成立に尽力した。7月30日には黙雷等とともに建議書を提出し、本山改革を要求。8月には建議が容認され、改正の具体案を繰り返し上申する。9月、学林改正に携わるほか、黙雷とともに本山の砦営関門資金の献納辞退や開拓改鑿河事業の中止を建言する[年譜]。
明治2年(1869) 3月、本山参政に任命。年末、「藩用」として東京へ行き、回向院での諸宗同徳会盟へ出席[年譜]。
明治4年(1871) 門主明如の海外渡航に際し、11月に連城等の留学が決定[年譜]。
明治5年(1872) 1月27日、本山から堀川教阿とともにイギリスへの留学を命ぜられ、光田為然(ドイツ留学)、海外教状視察の梅上沢融・島地黙雷等とともにフランス汽船で横浜港を出発。7月ごろ、イギリスの宗教事情を「英国宗教事情」にまとめる[年譜]。
明治6年(1873) 1月、『教義新聞』10号に「徳応寺連城仏国巴里ヨリノ来書抜抄」を掲載する。2月18〜22日、帰国前にイギリスに寄った黙雷とともに印度博物館・バイブルソサイティ等へ来訪。5月25日、ロンドンへ来た松本白華達に会う。6月1日、石川舜台・成島柳北らを「バンキン公」王宮・印度博物館等へ案内し、以降数回会う[年譜]。
明治7年(1874) 8月20日、ドイツ留学中であった光田為然が病に倒れ、ともに帰国。『教義新聞』65号に「外国火葬説」を掲載する。9月20日、小野梓等とともに共存同衆を創立する。12月、本山から堂班衣体を特許[年譜]。
明治8年(1875) 4月3日、学林にて明如の学林改革趣旨を演達する。また、学林に普通学科が開講され、内田了譲や藤島了穏とともに担当。5月、「読小野君通常教養論」を共存同衆機関紙の『共存雑誌』7号へ掲載。10月2日、一家列座初代となり、紫袈裟御免[年譜]。
明治9年(1876) 6月2日、「内試講案差出方之儀ニ付伺」を提出。7月14日に教用のため上京し、8月11日に帰京。8月16日には執綱欠員執事不在中の事務取扱となる。10月9日、教導職少教正に補任。また、フランス人エミル・ギメを黙雷・渥美契縁とともに飛雲閣で応対する。12月11日、宣旨送還掛に任命される(注:同年11月に親鸞への「見真」追贈関連か)。同月21日に議事兼教育課長を辞任。23日には本山を訪問した昭憲皇太后に飛雲閣で拝謁する[年譜]。
明治10年(1877) 1月27日、本山が改正事務局を設置し、連城は改正事務局に出仕する。また、「主上臨幸」中臨時用係に任命される。2月13日、議場幹事になり、3月8日に副主議兼改正事務局出仕となる。同月に本山が議事・行事両局を七科に分け、連城は22日にそのうちの第一科用掛となる。23日には金亀教校へ出張する。5月、興隆社を結成し、機関紙の発行を計画。6月26日から30日まで兵庫県下へ出張、30日に大阪府下の錬学教校へ出張する。7月3日には大阪府下小教校へ日帰りで出張。6日から広島・山口・岡山・島根四県へ門末取締のために出張。9月18日、豊前上毛郡宇野島教務所内設置の開闡教校へ出張[年譜]。
明治12年(1879) 5月11日、大教校が開校され、その校長に就任。9月以降、内務省社寺局桜井能監の指導を受けつつ、寺法草案作成に携わる[年譜]。
明治13年(1880) 1月17日、芝栄町の曹洞宗宗務局において開催された、各宗同盟の会合である和敬会に出席[年譜]。
明治15年(1882) 7月4日、本山雀の間において米人ゴルドン・クックと面談し、キリスト教と仏教について語る[年譜]。
明治17年(1884) 9月、スウェーデン・ノルウェー国親王オスカルが本山へ来訪、接待を行う。10月21日、本山において香港大守ジョルジボーエンを接待。同月30日、フェノロサと対話。
明治22年(1889) 門主の市ヶ谷監獄教誨に随行、直諭を復演。3月14日には門主の帰山に随行し、途中の静岡・井の宮監獄で門主の親教を復演[年譜]。
明治23年(1890) 真宗僧侶30余名が衆議院に提出した「僧侶被選権に関する陳情書」に署名[年譜]。
明治27年(1894) 10月5日、広島駐在と第五・六師団の布教を命じられる。広島駐在は辞退。
明治28年(1895) 2月、広島へ出張し、従軍僧とともに兵士の士気を鼓舞。4月、第六師団と佐世保鎮守府病院へ慰問のために出張。11月29日、近衛第一連隊戦死者追弔会に列席する[年譜]。
明治29年(1896) 2月、門主に随行し、大阪歩兵第二十連隊の追弔法要において法話を行う。4月、本山開教事務局布教員長として広島・呉・江田島に出張し、婦人慈善会や衛戌監獄、広島監獄、呉海軍病院、海軍監獄、尚友会(江田島)などで法話や演説を行う。6月、近府県下監獄巡視に就任[年譜]。
明治31年(1898) 8月5日、相国寺にて開催された各宗派委員会に管長代理として出席[年譜]。
明治32年(1899) 12月11日、宗教法案に関する各宗委員会において教団を代表して条件付き賛成説を主張、反対する大谷派と衝突[年譜]。
明治33年(1900) 4月、仏教大学が設立され、学長に就任。12月、貴族院・衆議院議員有志の宗教研究会に招かれ、宗教法についての意見を述べる[年譜]。
明治35年(1902) 3月31日、仏教大学長を辞任[年譜]。
大正3年(1914) 2月11日、本山の負債問題に関し、取調べを受ける。6月6日、全役職を辞任する。また、本山及び教団内での諸待遇を懲戒処分決行猶予のあいだ停止される[年譜]。
大正4年(1915) 11月17日、特赦により処分解除。権利や待遇などが回復される[年譜]。
大正8年(1919) 7月20日、死去[年譜]。
+主要著作赤松連城「崇徳会法語」梅田君造編『明治大家論集』法蔵館、1887年。
赤松連城述『新年之吉語』顕道書院、1890年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821874〕。
赤松連城述『婦徳の綱領』京都婦人教会事務所、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758266〕。
赤松連城『護国之栞』満田了誓、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820623〕。
赤松連城『勅語衍義』清水精一郎、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759402〕。
赤松連城「佛教利益」・「宗教と學術との關係」・「宗教と社會との關係」・「慈善會に於て」佐々木亨編『佛教新演説』明昇堂、1891年。
赤松連城『新年之吉語』顕道書院、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821874〕。
赤松連城『歓喜の詞』顕道書院、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820214〕。
赤松連城『赤松連城師法話』日進精心会、1892年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819867〕。
赤松連城『精神之基礎』山中活版所、1892年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757493〕。
赤松連城「無上の吉語」河島常吉編『法の雫』河島常吉、1894年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822343〕。
赤松連城「真宗大意略説」佐々木恵雲編『真宗大意』興教書院、1894年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821638〕。
赤松連城『軍人覚悟一夕話』真宗伝道会、1895年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820428〕。
赤松連城『忠実勇武』真宗婦人妙好会、1895年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818554〕。
赤松連城『御遺訓御消息略解』顕道書院、1896年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820539〕。
赤松連城「真宗の学事」・「入出二門偈聴記」昇階者協同会『安居講録 明治2831年』1896年1899年。
赤松連城述・法園社編『演説説教集』興教書院、1897年 演説之部〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820016〕説教法話之部〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820017〕。
赤松連城等『伝道の栞 第1輯』伝道館、1901年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822208〕。
赤松連城等述・松田善六編『戦時応用説教』顕道書院、1904年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822001〕。
赤松連城「行の説」京都市聯合佛教青年會編『仏教講演集 第2編』西村七兵衛、1907年。
赤松連城「富強の関係」興教書院編纂局編纂『富國の礎—産業と佛教 上巻』興教書院、1910年。
赤松連城「産業奨励と教家の本分」興教書院編纂局編纂『富國の礎—産業と佛教 下巻』興教書院、1910年。
赤松連城『入出二門偈講義』竜谷学会、1914年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943471〕。
赤松連城「大正7年度 大無量寿経悲化段」『安芸教区仏教講習会講義録 大正7、8年度』安芸教区教務所、19191920年。
+キーワード(1)浄土真宗
+キーワード(2)仏教家教導職
データベースの典拠「年譜」=「赤松連城」研究会編『赤松連城資料』下巻、本願寺出版部、1984年。
「真宗人名辞典」=柏原祐泉・薗田香融・平松令三監修『真宗人名辞典』法蔵館、1999年。
コンテンツ権利区分CC BY-NC
資料ID40276
-106933 50 2018/02/27 kota.saito 本登録 0 JMK000115 赤松連城 AKAMATSU Renjo 赤松連城 AKAMATSU Renjo 文久12年(1841)〜大正8年(1919) あかまつ れんじょう / AKAMATSU Renjo / 男 あかまつ れんじょう 〔幼〕宇三郎[真宗人名事典]
〔諱〕連城[真宗人名事典]
〔号〕榕隠、円通道人、聴泉[真宗人名事典]
〔諡〕円通院[真宗人名事典] 文久12年(1841)年1月17日[年譜] 大正8年(1919)7月20日[年譜] 浄土真宗(本願寺派) ☆本願寺史料研究所編『本願寺史』3、浄土真宗本願寺派宗務所、1971年。
☆「赤松連城」研究会編『赤松連城資料』上中下、本願寺出版部、1982〜1984年。 平田厚志「幕末防長二州「真宗一派風儀改正」運動」『竜谷大学仏教文化研究所紀要』22、1983年。
平田厚志「赤松連城の護法思想」日野賢隆編『近代真宗史の研究』永田文昌堂1987年。
高石史人「赤松連城における仏教と慈善」佐藤三千雄編『知と信』永田文昌堂、1994年。
高石史人「近代真宗教団と慈善—赤松連城の慈善観」『仏教福祉への視座』永田文昌堂、2005年。
深見秦孝「仏教系生命保険会社の生成について」『保険学雑誌』602、2008年。
安渓遊地他編「明治初期に仏教を救った山口の四傑僧」『山口県立大学学術情報』5、2012年。
徳広圭子「濃尾大地震と児童救済事業—浄土真宗本願寺派の動向を中心に—」『岐阜聖徳学園大学短期大学部紀要』47、2015年。 山内脩謙『明治大正傑僧秘談』大雄閣、1929年。
常光浩然『近代仏教界の人間像』世界仏教教会、1962年。
常光浩然『明治の仏教者 上下』(春秋社、1968-1969年)。
日本仏教人名辞典編纂委員会編『日本仏教人名辞典』法蔵館、1992年。
柏原祐泉・薗田香融・平松令三監修『真宗人名辞典』法蔵館、1999年。 天保12年(1841) 1月17日、加賀国金沢大工町に扇箱製造を生業とする佐助・梅の3男として生まれた。幼名は宇三郎[年譜]。
弘化3年(1846) 金沢西勝寺で養育を受け、藩校明倫堂で学んだ。また、越中富山願称寺で得度している[年譜]。
嘉永2年(1849) 12月1日、若狭妙寿寺に住していた栖城に入門する[年譜]。
安政3年(1856) 12月16日、咸宜園に入塾し、広瀬青村のもとで儒学を学ぶ[年譜]。
万延元年(1860) 肥前教宗寺の住職となっていた栖城が三業派説諭のために熊本へ赴くところへ随従する。その際に島地黙雷に出会い、対論を行ったが、勝敗は決さなかったとされる[年譜]。
文久3年(1863) 周防国徳山徳応寺赤松真成の養子となって入寺し、千代野と結婚[年譜]。
慶応元年(1865) 長女安子が誕生。所用で九州に赴き、島地黙雷の依頼により、彼の『送葬論』への序文を秋月橘門へ依頼する[年譜]。
慶応2年(1866) 「上国探索の為」自坊を留守にしていたが、大洲鉄然・三国管嶺・芥川義天等による防長二州「真宗一派風儀改正」運動へ秋以降参画。鉄然・島地黙雷等と藩内を巡回する[年譜]。
慶応3年(1867) 「風儀改正」運動推進のため、藩内各地を巡回。『改正諭言』を著す[年譜]。
慶応4年・明治元年(1868) 6月、島地黙雷等が清光寺学校の生徒で僧兵団を組織し、引率上洛を計画。不要となり取りやめた。連城は「東上」しており不在。7月、島地黙雷・白鳥唯唱等が「長防二州総代」として上洛し、連城も合流。常見寺明朗等を加えて本山改革の推進について論議する。連城は興正寺摂信と接触し、本山改革に向けての情報収集を行う。また、宇和島大隆寺住職の韜谷を摂信へ紹介し、諸宗同徳会盟の成立に尽力した。7月30日には黙雷等とともに建議書を提出し、本山改革を要求。8月には建議が容認され、改正の具体案を繰り返し上申する。9月、学林改正に携わるほか、黙雷とともに本山の砦営関門資金の献納辞退や開拓改鑿河事業の中止を建言する[年譜]。
明治2年(1869) 3月、本山参政に任命。年末、「藩用」として東京へ行き、回向院での諸宗同徳会盟へ出席[年譜]。
明治4年(1871) 門主明如の海外渡航に際し、11月に連城等の留学が決定[年譜]。
明治5年(1872) 1月27日、本山から堀川教阿とともにイギリスへの留学を命ぜられ、光田為然(ドイツ留学)、海外教状視察の梅上沢融・島地黙雷等とともにフランス汽船で横浜港を出発。7月ごろ、イギリスの宗教事情を「英国宗教事情」にまとめる[年譜]。
明治6年(1873) 1月、『教義新聞』10号に「徳応寺連城仏国巴里ヨリノ来書抜抄」を掲載する。2月18〜22日、帰国前にイギリスに寄った黙雷とともに印度博物館・バイブルソサイティ等へ来訪。5月25日、ロンドンへ来た松本白華達に会う。6月1日、石川舜台・成島柳北らを「バンキン公」王宮・印度博物館等へ案内し、以降数回会う[年譜]。
明治7年(1874) 8月20日、ドイツ留学中であった光田為然が病に倒れ、ともに帰国。『教義新聞』65号に「外国火葬説」を掲載する。9月20日、小野梓等とともに共存同衆を創立する。12月、本山から堂班衣体を特許[年譜]。
明治8年(1875) 4月3日、学林にて明如の学林改革趣旨を演達する。また、学林に普通学科が開講され、内田了譲や藤島了穏とともに担当。5月、「読小野君通常教養論」を共存同衆機関紙の『共存雑誌』7号へ掲載。10月2日、一家列座初代となり、紫袈裟御免[年譜]。
明治9年(1876) 6月2日、「内試講案差出方之儀ニ付伺」を提出。7月14日に教用のため上京し、8月11日に帰京。8月16日には執綱欠員執事不在中の事務取扱となる。10月9日、教導職少教正に補任。また、フランス人エミル・ギメを黙雷・渥美契縁とともに飛雲閣で応対する。12月11日、宣旨送還掛に任命される(注:同年11月に親鸞への「見真」追贈関連か)。同月21日に議事兼教育課長を辞任。23日には本山を訪問した昭憲皇太后に飛雲閣で拝謁する[年譜]。
明治10年(1877) 1月27日、本山が改正事務局を設置し、連城は改正事務局に出仕する。また、「主上臨幸」中臨時用係に任命される。2月13日、議場幹事になり、3月8日に副主議兼改正事務局出仕となる。同月に本山が議事・行事両局を七科に分け、連城は22日にそのうちの第一科用掛となる。23日には金亀教校へ出張する。5月、興隆社を結成し、機関紙の発行を計画。6月26日から30日まで兵庫県下へ出張、30日に大阪府下の錬学教校へ出張する。7月3日には大阪府下小教校へ日帰りで出張。6日から広島・山口・岡山・島根四県へ門末取締のために出張。9月18日、豊前上毛郡宇野島教務所内設置の開闡教校へ出張[年譜]。
明治12年(1879) 5月11日、大教校が開校され、その校長に就任。9月以降、内務省社寺局桜井能監の指導を受けつつ、寺法草案作成に携わる[年譜]。
明治13年(1880) 1月17日、芝栄町の曹洞宗宗務局において開催された、各宗同盟の会合である和敬会に出席[年譜]。
明治15年(1882) 7月4日、本山雀の間において米人ゴルドン・クックと面談し、キリスト教と仏教について語る[年譜]。
明治17年(1884) 9月、スウェーデン・ノルウェー国親王オスカルが本山へ来訪、接待を行う。10月21日、本山において香港大守ジョルジボーエンを接待。同月30日、フェノロサと対話。
明治22年(1889) 門主の市ヶ谷監獄教誨に随行、直諭を復演。3月14日には門主の帰山に随行し、途中の静岡・井の宮監獄で門主の親教を復演[年譜]。
明治23年(1890) 真宗僧侶30余名が衆議院に提出した「僧侶被選権に関する陳情書」に署名[年譜]。
明治27年(1894) 10月5日、広島駐在と第五・六師団の布教を命じられる。広島駐在は辞退。
明治28年(1895) 2月、広島へ出張し、従軍僧とともに兵士の士気を鼓舞。4月、第六師団と佐世保鎮守府病院へ慰問のために出張。11月29日、近衛第一連隊戦死者追弔会に列席する[年譜]。
明治29年(1896) 2月、門主に随行し、大阪歩兵第二十連隊の追弔法要において法話を行う。4月、本山開教事務局布教員長として広島・呉・江田島に出張し、婦人慈善会や衛戌監獄、広島監獄、呉海軍病院、海軍監獄、尚友会(江田島)などで法話や演説を行う。6月、近府県下監獄巡視に就任[年譜]。
明治31年(1898) 8月5日、相国寺にて開催された各宗派委員会に管長代理として出席[年譜]。
明治32年(1899) 12月11日、宗教法案に関する各宗委員会において教団を代表して条件付き賛成説を主張、反対する大谷派と衝突[年譜]。
明治33年(1900) 4月、仏教大学が設立され、学長に就任。12月、貴族院・衆議院議員有志の宗教研究会に招かれ、宗教法についての意見を述べる[年譜]。
明治35年(1902) 3月31日、仏教大学長を辞任[年譜]。
大正3年(1914) 2月11日、本山の負債問題に関し、取調べを受ける。6月6日、全役職を辞任する。また、本山及び教団内での諸待遇を懲戒処分決行猶予のあいだ停止される[年譜]。
大正4年(1915) 11月17日、特赦により処分解除。権利や待遇などが回復される[年譜]。
大正8年(1919) 7月20日、死去[年譜]。 - 赤松連城「崇徳会法語」梅田君造編『明治大家論集』法蔵館、1887年。
赤松連城述『新年之吉語』顕道書院、1890年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821874〕。
赤松連城述『婦徳の綱領』京都婦人教会事務所、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758266〕。
赤松連城『護国之栞』満田了誓、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820623〕。
赤松連城『勅語衍義』清水精一郎、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759402〕。
赤松連城「佛教利益」・「宗教と學術との關係」・「宗教と社會との關係」・「慈善會に於て」佐々木亨編『佛教新演説』明昇堂、1891年。
赤松連城『新年之吉語』顕道書院、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821874〕。
赤松連城『歓喜の詞』顕道書院、1891年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820214〕。
赤松連城『赤松連城師法話』日進精心会、1892年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819867〕。
赤松連城『精神之基礎』山中活版所、1892年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757493〕。
赤松連城「無上の吉語」河島常吉編『法の雫』河島常吉、1894年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822343〕。
赤松連城「真宗大意略説」佐々木恵雲編『真宗大意』興教書院、1894年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821638〕。
赤松連城『軍人覚悟一夕話』真宗伝道会、1895年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820428〕。
赤松連城『忠実勇武』真宗婦人妙好会、1895年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818554〕。
赤松連城『御遺訓御消息略解』顕道書院、1896年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820539〕。
赤松連城「真宗の学事」・「入出二門偈聴記」昇階者協同会『安居講録 明治28-31年』1896年-1899年。
赤松連城述・法園社編『演説説教集』興教書院、1897年 演説之部〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820016〕説教法話之部〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820017〕。
赤松連城等『伝道の栞 第1輯』伝道館、1901年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822208〕。
赤松連城等述・松田善六編『戦時応用説教』顕道書院、1904年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822001〕。
赤松連城「行の説」京都市聯合佛教青年會編『仏教講演集 第2編』西村七兵衛、1907年。
赤松連城「富強の関係」興教書院編纂局編纂『富國の礎—産業と佛教 上巻』興教書院、1910年。
赤松連城「産業奨励と教家の本分」興教書院編纂局編纂『富國の礎—産業と佛教 下巻』興教書院、1910年。
赤松連城『入出二門偈講義』竜谷学会、1914年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943471〕。
赤松連城「大正7年度 大無量寿経悲化段」『安芸教区仏教講習会講義録 大正7、8年度』安芸教区教務所、1919-1920年。 浄土真宗 仏教家教導職 - - - - - - 文化~慶応 明治0年代 明治10年代 明治20年代 明治30年代 明治40年代 大正 - - - 「年譜」=「赤松連城」研究会編『赤松連城資料』下巻、本願寺出版部、1984年。
「真宗人名辞典」=柏原祐泉・薗田香融・平松令三監修『真宗人名辞典』法蔵館、1999年。 - 1

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