板倉勝静

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名板倉勝静
+読み仮名 / NAME / 性別いたくら かつきよ / ITAKURA Katsukiyo / 男
+別称〔幼名〕寧八郎、萬之進、新十郎[伊賀守伝]
〔号〕松叟[伊賀守伝]
+生年月日文政6年(1823)1月4日[閣老]
+没年月日明治22年(1889)4月6日[伊賀守伝]
学統・宗派山田方谷[閣老]
+研究書・伝記国分胤之編「魚水実録」2‐2、旧高梁藩親睦会、1911年
谷資敬「傷心録」―謄(日本人物文献目録記載/要調査)、谷資敬、1929年
田村栄太郎「板倉伊賀守」、三元社、1941年
鎌田先生還暦記念会編「幕末政治史上における板倉勝静ー徳川慶喜との関係を中心として(加藤義範)」『鎌田博士還暦記念歴史学論叢』鎌田先生還暦記念会、1969年
☆朝森要『幕末の閣老板倉勝静』福武書店、1975年
関西大学史学会編「小笠原率兵上京事件と老中板倉勝静(朝森要)」『日本史学論集 : 関西大学文学部史学科創設二十五周年記念』関西大学史学会、1975年
+研究論文☆「板倉伊賀守伝」『旧幕府』4、1897年
田村栄太郎「幕末閣老板倉伊賀守」『日本の風俗』211、1939年
三上昭美「幕末老中の政治的基盤―板倉勝静の場合」『歴史教育』141、日本書院、1966年
朝森要「小笠原率兵上京事件と老中板倉勝静 (関西大学文学部史学科創設25周年記念)」『史泉』50、関西大学史学・地理学会 、1975年
中本淳爾「勝海舟と幕末の閣老板倉勝静 (特集/勝海舟の謎)」『歴史研究』445、1998年
童門冬二「名リダとその補佐たち藩主は老中、家老は農民板倉勝静と山田方谷」『農業協同組合経営実務』53‐11~13、全国協同出版、1998年
横山高治「特別読物 幕末最後の宰相 板倉勝靜幕府を必死に支え、敗残の逃亡」『歴史研究 』4612、2004年
高木総平・八木橋康広「二宮邦次郎の故郷・備中松山の精神的環境2 : 備中松山藩の栄光」、『松山東雲女子大学人文学部紀要 』14、松山東雲女子大学・松山東雲短期大学、2006年
童門冬二「歴史に見る リーダーと、それを支えた人たち 改革は一度財政フレームの外に出て―老中板倉勝静と山田方谷」1~7、『市政』56(12)~57(6)、全国市長会館、20072008年
+事典・略伝等新人物往来社編『物語五稜郭悲話』新人物往来社、1988年
岡山県編『岡山県人物伝』岡山県、1911年

*国史大辞典、日本人名大辞典
+略年譜文政6年(1823) 1月4日、桑名藩主松平定永の第八子として奥州白河城に生まれる。幼名、寧八郎、万之進[閣老]。
天保13年(1842) 6月、松山藩主板倉勝職の養子となり新十郎と改名[伊賀守伝]。
弘化元年(1844) 養父勝職に代わって松山に帰り、世子として藩政をとる[閣老]。
弘化2年(1845) 従五位下に叙し、左近衛将監に任ぜられる[伊賀守伝]。
嘉永2年(1849) 4月、養父勝職の隠居により家督を継ぐ。この年、周防守に任ぜられる。8月、養父勝職死去。12月、山田方谷を抜擢し、翌年より藩政改革を断行[閣老]。
嘉永4年(1851) 6月13日、奏者番となる[閣老]。
安政4年(1857) 8月11日、寺社奉行を兼勤[閣老]。
安政6年(1859) 2月2日、職を免ぜられる[閣老]。
万延2年(1861) 2月1日、奏者番・神社奉行に再任される[閣老]。
文久2年(1862) 3月、老中となり外国掛になる。従四位に叙し、侍従に任ぜられる[伊賀守伝]。
文久3年(1863) 将軍家茂に供奉して上洛。6月、江戸に帰る[伊賀守伝]。
元治元年(1864) 6月、老中の職を免ぜられる[伊賀守伝]。
慶應元年(1865) 10月、再び老中の職に就き、伊賀守と改称[閣老]。
慶應2年(1866) 1月26日、軍事取扱を命ぜられる。7月、将軍家茂が大阪城にて死去し、勝静は上京し一橋公を迎える[閣老]。
明治元年(1868) 1月6日、勝静は慶喜公に従い江戸に帰る。24日、国内御用取扱を命ぜられる。29日、老中職を辞し、世子勝全に家督を譲る。3月、勝静親子日光山に屏居。その後、奥州流転、箱館へ向かう[閣老]。
明治2年(1869) 5月、箱舘より東京に帰り、安中邸に幽ぜられる。8月、勝全とともに終身禁固となる。[伊賀守伝]。
明治5年(1872) 1月6日、禁錮を許される[閣老]。
明治9年(1876) 従五位に叙せられる[伊賀守伝]。
明治10年(1877) 6月26日、山田方谷死去。7月16日、上野東照宮祠官に就任[閣老]。
明治13年(1880) 従四位に叙せられる[伊賀守伝]。
明治20年(1887) 正四位に叙せられる[伊賀守伝]。
明治22年(1889) 4月6日、自邸にて死去[伊賀守伝]。
+キーワード(1)教派神道(神道教派)
データベースの典拠「伊賀守伝」=「板倉伊賀守伝」『旧幕府』4、1897年。
「閣老」=朝森要『幕末の閣老板倉勝静』福武書店、1975年。
-106869 50 2018/02/27 kota.saito 本登録 0 JMK000051 板倉勝静 ITAKURA Katsukiyo 板倉勝静 ITAKURA Katsukiyo 文政6年(1823)~明治22年(1889) いたくら かつきよ / ITAKURA Katsukiyo / 男 いたくら かつきよ 〔幼名〕寧八郎、萬之進、新十郎[伊賀守伝]
〔号〕松叟[伊賀守伝] 文政6年(1823)1月4日[閣老] 明治22年(1889)4月6日[伊賀守伝] 山田方谷[閣老] 国分胤之編「魚水実録」2‐2、旧高梁藩親睦会、1911年
谷資敬「傷心録」―謄(日本人物文献目録記載/要調査)、谷資敬、1929年
田村栄太郎「板倉伊賀守」、三元社、1941年
鎌田先生還暦記念会編「幕末政治史上における板倉勝静ー徳川慶喜との関係を中心として(加藤義範)」『鎌田博士還暦記念歴史学論叢』鎌田先生還暦記念会、1969年
☆朝森要『幕末の閣老板倉勝静』福武書店、1975年
関西大学史学会編「小笠原率兵上京事件と老中板倉勝静(朝森要)」『日本史学論集 : 関西大学文学部史学科創設二十五周年記念』関西大学史学会、1975年 ☆「板倉伊賀守伝」『旧幕府』4、1897年
田村栄太郎「幕末閣老板倉伊賀守」『日本の風俗』2-11、1939年
三上昭美「幕末老中の政治的基盤―板倉勝静の場合」『歴史教育』14-1、日本書院、1966年
朝森要「小笠原率兵上京事件と老中板倉勝静 (関西大学文学部史学科創設25周年記念)」『史泉』50、関西大学史学・地理学会 、1975年
中本淳爾「勝海舟と幕末の閣老板倉勝静 (特集/勝海舟の謎)」『歴史研究』445、1998年
童門冬二「名リ-ダ-とその補佐たち--藩主は老中、家老は農民--板倉勝静と山田方谷」『農業協同組合経営実務』53‐11~13、全国協同出版、1998年
横山高治「特別読物 幕末最後の宰相 板倉勝靜--幕府を必死に支え、敗残の逃亡」『歴史研究 』46-12、2004年
高木総平・八木橋康広「二宮邦次郎の故郷・備中松山の精神的環境2 : 備中松山藩の栄光」、『松山東雲女子大学人文学部紀要 』14、松山東雲女子大学・松山東雲短期大学、2006年
童門冬二「歴史に見る リーダーと、それを支えた人たち 改革は一度財政フレームの外に出て―老中板倉勝静と山田方谷」1~7、『市政』56(12)~57(6)、全国市長会館、2007-2008年 新人物往来社編『物語五稜郭悲話』新人物往来社、1988年
岡山県編『岡山県人物伝』岡山県、1911年

*国史大辞典、日本人名大辞典 文政6年(1823) 1月4日、桑名藩主松平定永の第八子として奥州白河城に生まれる。幼名、寧八郎、万之進[閣老]。
天保13年(1842) 6月、松山藩主板倉勝職の養子となり新十郎と改名[伊賀守伝]。
弘化元年(1844) 養父勝職に代わって松山に帰り、世子として藩政をとる[閣老]。
弘化2年(1845) 従五位下に叙し、左近衛将監に任ぜられる[伊賀守伝]。
嘉永2年(1849) 4月、養父勝職の隠居により家督を継ぐ。この年、周防守に任ぜられる。8月、養父勝職死去。12月、山田方谷を抜擢し、翌年より藩政改革を断行[閣老]。
嘉永4年(1851) 6月13日、奏者番となる[閣老]。
安政4年(1857) 8月11日、寺社奉行を兼勤[閣老]。
安政6年(1859) 2月2日、職を免ぜられる[閣老]。
万延2年(1861) 2月1日、奏者番・神社奉行に再任される[閣老]。
文久2年(1862) 3月、老中となり外国掛になる。従四位に叙し、侍従に任ぜられる[伊賀守伝]。
文久3年(1863) 将軍家茂に供奉して上洛。6月、江戸に帰る[伊賀守伝]。
元治元年(1864) 6月、老中の職を免ぜられる[伊賀守伝]。
慶應元年(1865) 10月、再び老中の職に就き、伊賀守と改称[閣老]。
慶應2年(1866) 1月26日、軍事取扱を命ぜられる。7月、将軍家茂が大阪城にて死去し、勝静は上京し一橋公を迎える[閣老]。
明治元年(1868) 1月6日、勝静は慶喜公に従い江戸に帰る。24日、国内御用取扱を命ぜられる。29日、老中職を辞し、世子勝全に家督を譲る。3月、勝静親子日光山に屏居。その後、奥州流転、箱館へ向かう[閣老]。
明治2年(1869) 5月、箱舘より東京に帰り、安中邸に幽ぜられる。8月、勝全とともに終身禁固となる。[伊賀守伝]。
明治5年(1872) 1月6日、禁錮を許される[閣老]。
明治9年(1876) 従五位に叙せられる[伊賀守伝]。
明治10年(1877) 6月26日、山田方谷死去。7月16日、上野東照宮祠官に就任[閣老]。
明治13年(1880) 従四位に叙せられる[伊賀守伝]。
明治20年(1887) 正四位に叙せられる[伊賀守伝]。
明治22年(1889) 4月6日、自邸にて死去[伊賀守伝]。 - - 教派神道(神道教派) - - - - - - - 文化~慶応 明治0年代 明治10年代 明治20年代 - - - - - - 「伊賀守伝」=「板倉伊賀守伝」『旧幕府』4、1897年。
「閣老」=朝森要『幕末の閣老板倉勝静』福武書店、1975年。 - 神道大成教との関係について要追記? 1
資料ID40212

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