みわやま

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名みわやま;三輪山
+表記三輪山
TitleMiwayama
テキスト内容地名。枕詞「うまさけ」に導かれる。「御諸つく」を冠する歌もある(7-1095)。奈良県桜井市三輪のあたり。近鉄とJRの連絡する桜井駅の東北一帯で、初瀬川が盆地に流れ出る北側一帯になる。万葉集では「三輪河」「三輪の檜原」と周縁の川や原も詠われている。三輪山は標高467mで、円錐形の山容をしている。御諸山(みもろやま)とも呼ばれ、大神神社(おおみわじんじゃ)のご神体として祭られており、記紀に祭祀および三輪山の神に関する伝承が見える。三輪山の神について、記では御諸山に坐す神と呼ばれ大国主神が国作りを行う際のパートナーとして少彦名神の後に「倭の青垣東山上」に斎(いつ)きまつったといい、後に「美和の大物主神」の名称で三嶋(大阪府三島郡)の湟咋(みぞくい)の娘のもとに通い、のちに神武天皇の后となる伊須気余理比売を生ませる話がある(神武記)。したがって記は二代天皇が大物主神の孫であると主張するのだが紀はそれを事代主神としており記紀間に皇統の母系に関して構想の違いを見せる。さらに崇神天皇の時代には諸国に疫病を流行らせ、天皇の夢に「大物主大神」としてあわられ、自身が陶津耳命の娘である活玉依毘売に生ませた子の四世孫(大物主大神の五世孫となる)の意富多々泥古に「御諸山に意冨美和之大神を拝祭」させている。なお崇神記に見える大物主神と活玉依比売との婚姻譚は三輪の地名起源譚となっている。意冨多々泥古(おほたたねこ)による大物主神祭祀の物語は崇神紀にも見えるが(7年~8年条)、三輪山の神と明確には記述していない。しかしその祭りにあたっては天皇臨席のもと、神酒が造られ、宴が催される。そこでは大物主神の醸造した酒であると称える歌が詠われ、宴果ててのちは諸大夫と天皇によって歌が唱和される。いずれの詞章にも「味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門にも」と謡われるので、三輪山の神とみることができよう。また雄略紀には三諸岳(祭神を大物主と伝える)の神の姿を見たいと天皇が言ったために、少子部蜾蠃が連れてくる話がある(雄略記6年7月条)。そこには蛇神として描かれている。これらの伝承は三輪山が大和王権と農耕に関係して深く関わった山であることを示す。万葉集には「三輪の祝(はふり)」(4-712、7-1403)という語もあり、三輪山に祭師集団がいたことが推察される。万葉集の17~19番歌では近江に下る額田王が三輪山を仰ぎつつ「つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を」(1-17)と三輪山を「見る」ことに執着して詠うのも、そうした伝承を踏まえてのことであろう。身﨑壽「三輪山のうた」『日本上代文学論集』(塙書房)。和田萃「三輪山の神」「三輪山祭祀をめぐって」『三輪山の神々』(学生社)
+執筆者城﨑陽子
-73055402009/11/11hoshino.seiji00DSG000842みわやま;三輪山Miwayama地名。枕詞「うまさけ」に導かれる。「御諸つく」を冠する歌もある(7-1095)。奈良県桜井市三輪のあたり。近鉄とJRの連絡する桜井駅の東北一帯で、初瀬川が盆地に流れ出る北側一帯になる。万葉集では「三輪河」「三輪の檜原」と周縁の川や原も詠われている。三輪山は標高467mで、円錐形の山容をしている。御諸山(みもろやま)とも呼ばれ、大神神社(おおみわじんじゃ)のご神体として祭られており、記紀に祭祀および三輪山の神に関する伝承が見える。三輪山の神について、記では御諸山に坐す神と呼ばれ大国主神が国作りを行う際のパートナーとして少彦名神の後に「倭の青垣東山上」に斎(いつ)きまつったといい、後に「美和の大物主神」の名称で三嶋(大阪府三島郡)の湟咋(みぞくい)の娘のもとに通い、のちに神武天皇の后となる伊須気余理比売を生ませる話がある(神武記)。したがって記は二代天皇が大物主神の孫であると主張するのだが紀はそれを事代主神としており記紀間に皇統の母系に関して構想の違いを見せる。さらに崇神天皇の時代には諸国に疫病を流行らせ、天皇の夢に「大物主大神」としてあわられ、自身が陶津耳命の娘である活玉依毘売に生ませた子の四世孫(大物主大神の五世孫となる)の意富多々泥古に「御諸山に意冨美和之大神を拝祭」させている。なお崇神記に見える大物主神と活玉依比売との婚姻譚は三輪の地名起源譚となっている。意冨多々泥古(おほたたねこ)による大物主神祭祀の物語は崇神紀にも見えるが(7年~8年条)、三輪山の神と明確には記述していない。しかしその祭りにあたっては天皇臨席のもと、神酒が造られ、宴が催される。そこでは大物主神の醸造した酒であると称える歌が詠われ、宴果ててのちは諸大夫と天皇によって歌が唱和される。いずれの詞章にも「味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門にも」と謡われるので、三輪山の神とみることができよう。また雄略紀には三諸岳(祭神を大物主と伝える)の神の姿を見たいと天皇が言ったために、少子部蜾蠃が連れてくる話がある(雄略記6年7月条)。そこには蛇神として描かれている。これらの伝承は三輪山が大和王権と農耕に関係して深く関わった山であることを示す。万葉集には「三輪の祝(はふり)」(4-712、7-1403)という語もあり、三輪山に祭師集団がいたことが推察される。万葉集の17~19番歌では近江に下る額田王が三輪山を仰ぎつつ「つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を」(1-17)と三輪山を「見る」ことに執着して詠うのも、そうした伝承を踏まえてのことであろう。身﨑壽「三輪山のうた」『日本上代文学論集』(塙書房)。和田萃「三輪山の神」「三輪山祭祀をめぐって」『三輪山の神々』(学生社)1018みわやま三輪山城﨑陽子み1
資料ID32452

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