テキスト内容 | 御殿、宮殿のこと。ミは接頭語、ヤは屋(『時代別国語大辞典』)。記の「天語歌」中の第一歌に「纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日光る宮 竹の根の 根足る宮 木の根の 根延ふ宮 八百土よし い杵築きの宮」(雄略記)とある。雄略天皇の宮は「長谷の朝倉宮」である。歌中の「纏向の日代の宮」は景行天皇の宮である。その宮を日の光が射し、竹や木の根がしっかり根付き、土でしっかり固められた建物である、と賛美している。雄略天皇にとって、景行天皇の時代は大八島国の版図が確立した理想的な時代であり、その宮を引き継ぐと歌うことが、雄略天皇の治世を言寿ぐことに繋がったのであろう。宮を歌い込むことが、天皇の治世を言寿ぐ表現になっていることが重要である。神話世界においては、伊奘諾尊が「日の少宮」に留まったといい(神代紀上第六段本書)、速須佐之男命が宮を須賀の地に造った(神代記)といい、火遠理命が「魚鱗の如く造れる宮室、其綿津見神の宮」を訪問したという(神代記)。いずれも「天」「出雲」「海原」という神話世界を支配する中心にその宮はある。万葉集に、宮殿を「うちひさす宮」(4-532、5-886、7-1280、11-2365、2382、12-3058、13-3324、14-3457、16-3791)と歌い、「海神の神の宮」(1760)と歌うのには、記紀と同様の宮意識がうかがわれる。また明日香皇女の挽歌(2-196)において、その宮を「朝宮」「夕宮」、その墓所を「常宮」と歌う。死に際して殯宮や墓所を宮と歌う例は、高市皇子尊の挽歌(2-199)にも「神宮」「常宮」などと見える。「高円の野(尾)の上の宮」(20-4506、4507)と離宮を歌うのは聖武天皇への追慕であり、柿本人麻呂が吉野離宮を「宮柱太敷きませば」(1-36)、「高殿を高知りまして」(1-36)と歌うのは、宮賛美の伝統を受け継ぐものであろう。宮を歌い込む中心には、天皇賛美の表現性がある。 |
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