かみ

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名かみ;神
+表記
TitleKami
テキスト内容天地・自然および異界の霊物。また、天皇や首長をもいう。カミの語義は不詳。古代日本では神は天つ神と国つ神とに分類され、神の階層性が見られる。天つ神は高天の原における神々であり、国つ神は葦原の中つ国の神々である。また根の国や黄泉の国にも神が存在すると考えられた。記の天地初発条に高天の原の神としてアメノミナカヌシの神・タカミムスビの神・カミムスビの神が成り、身を隠したという。以後に天つ神が誕生し、最後にイザナギ・イザナミの神が誕生し、両神により国生みがなされた。しかし火の神を産んだイザナミは黄泉の国へと去り、後を追ったイザナギはイザナミの課したタブーを犯して腐乱した妻の姿を見て驚き、黄泉の国から逃げ出し、穢れた身体を禊いだ時に日神のアマテラスの神、月神のツクヨミの命、風神のスサノオの命を産んだ。この三貴子の中のアマテラスの神が高天の原の主宰神となる。国つ神は葦原を支配する在地性の神であり、高天の原の神との対立や服属を経過し、次第に高天の原の神の支配へと組み込まれ高天の原の神学体系が成立する。これは日本列島において神々の闘争と統一を経て、神々の階層化が果たされて行く状況を示している。特に、葦原中つ国における神は出雲の神が中心であり、高天の原の神に葦原中つ国を譲るという重要な役割を果たす。出雲の神が日本列島に広く分布していたが、以後に高天の原の神が出雲の神に代わり葦原中つ国の神の支配神となって行く、神々の闘争の歴史を物語っている。高天の原の神という概念は後のものであると思われ、もとは古層の日本にも自然物に霊魂を認めるアニミズムの世界観が存在していた。ただ、そうした多くの霊物に囲まれながらも、村人たちの信仰する中心的な神が存在した。出雲の蛇神であるヤマタノオロチは、年毎に村を訪れて村の豊饒を予祝する神であったと思われる。この蛇神こそ多くの村々で祭っていた神であり、来訪すれば一夜妻に迎えられた。だが高天の原の新たな神から妖怪のように見なされ、ついには退治されることになる。クシナダヒメは、その名の通り奇(くし)稲田媛に相違なく、稲田の女神である。その稲田の女神と来訪する蛇神の神婚が、長い歴史の中で祭式として繰り返されていたのである。三輪山の神婚も蛇と土地の女との婚姻を語るものであり、タブーを破った土地の女が死ぬことはあっても、蛇神は三輪山に鎮座し続けていたのである。ところが、高天の原の神という新たな神の登場は、アニミズム的世界観を駆逐し、在地の神と対立し交替するという、文化交替の状況へと展開した。常陸国風土記の行方郡の話では、継体天皇の時代に箭括麻多智という者が谷を開墾した時に、夜刀の神という蛇神がたくさんいて、開墾を阻止したという。そこで麻多智は鎧兜に身を固めて夜刀の神を打ち殺し、標識を建てて神の土地と人間の土地とを区別し、以後は私が神の祝となり子々孫々祭りを行うので、祟ることはするなといい、社を建立して祀ったというのである。ところが、孝徳天皇の時代に壬生麻呂という男が、谷を占有し池を築いた時に夜刀の神が現れ阻止するので、麻呂はこの池を築くのは民を活かすためであり、なぜ天皇の王化に従わないのかと述べ、役人に悉く打ち殺せと命じると神は退散したという。ついに在地の神は、天皇と対立の果てに自らの土地を奪われ退散して行くのである。高天の原の神とは、この王化を推し進める神々の体系であり、在地の神の上に君臨する偉大な神の登場を意味した。アニミズムから出発する神は自然の霊格を持つ存在であるが、神が人型を取るのは文化的な成熟を経たことによるものであり、そのような神を産み出したのは高天の原の神の登場にあったといえる。先の三貴子も自然の霊格を幾分は保っているが、むしろ人格神としての要素が強い。在地の神は〈自然〉として、高天の原の神は〈文化〉として認識され、その交替のドラマが日本古代の神々の姿であった。そうした文化的神の成長のもとに、天皇は神として讃えられる。「大君は神」という天皇即神の思想である。天皇が神と称えられたのは壬申の乱に勝利した天武天皇に始まるが、柿本人麻呂は雷丘に行幸した天皇を天雲の雷の上に住まわれることだと称賛する(3-235)。この時代に土地の偉大な精霊であった〈スメロキ〉という古い霊格は、〈天皇〉へと翻訳される。いわばスメロキから天皇へと変質する段階に、天皇即神の思想が登場するのである。〈天皇〉という漢字は、天上に煌々と輝く天なる神を指し、中国の皇帝と等しい意味である。始皇帝は天上の神を自らの称号へと写し取り、偉大なる宇宙の王を名乗った。しかし、漢代以後の制度では皇帝も天の神の子、即ち天子であり、天の神を超越することはなかったのである。日本が受け入れた天皇号は、スメロキという古格を継承する。このスメロキは祖先神の意味合いが強く、天皇と表記しても律令的天皇であるよりも祖先の霊格を表しているのである。万葉集に「皇祖神」(3-443)「皇祖神之神」(7-1133)「皇神祖乃可見」(18-4111)などと見えるのは、いずれもスメロキと訓まれる表記であり、大伴家持の歌に「須売呂伎の可末」とあるのと等しい。万葉の時代にはスメロキという古語の意味は忘れられ、皇祖の意味が現れて現天皇も皇祖の霊を継承する存在であることから、スメロキやスメラコミトと呼ばれた。そのもとは地方に見られる〈スメ神〉にあり、それが高天の原の神学体系に組み入れられ、天皇を頂点とする地上の神々の体系が成立したのである。折口信夫「大嘗祭の本義」『全集3』(中央公論社)。津田左右吉「天皇考」『全集9』(岩波書店)。辰巳正明「王の神学」『詩霊論』(笠間書院)。
+執筆者辰巳正明
-68418402009/07/06hoshino.seiji00DSG000244かみ;神Kami天地・自然および異界の霊物。また、天皇や首長をもいう。カミの語義は不詳。古代日本では神は天つ神と国つ神とに分類され、神の階層性が見られる。天つ神は高天の原における神々であり、国つ神は葦原の中つ国の神々である。また根の国や黄泉の国にも神が存在すると考えられた。記の天地初発条に高天の原の神としてアメノミナカヌシの神・タカミムスビの神・カミムスビの神が成り、身を隠したという。以後に天つ神が誕生し、最後にイザナギ・イザナミの神が誕生し、両神により国生みがなされた。しかし火の神を産んだイザナミは黄泉の国へと去り、後を追ったイザナギはイザナミの課したタブーを犯して腐乱した妻の姿を見て驚き、黄泉の国から逃げ出し、穢れた身体を禊いだ時に日神のアマテラスの神、月神のツクヨミの命、風神のスサノオの命を産んだ。この三貴子の中のアマテラスの神が高天の原の主宰神となる。国つ神は葦原を支配する在地性の神であり、高天の原の神との対立や服属を経過し、次第に高天の原の神の支配へと組み込まれ高天の原の神学体系が成立する。これは日本列島において神々の闘争と統一を経て、神々の階層化が果たされて行く状況を示している。特に、葦原中つ国における神は出雲の神が中心であり、高天の原の神に葦原中つ国を譲るという重要な役割を果たす。出雲の神が日本列島に広く分布していたが、以後に高天の原の神が出雲の神に代わり葦原中つ国の神の支配神となって行く、神々の闘争の歴史を物語っている。高天の原の神という概念は後のものであると思われ、もとは古層の日本にも自然物に霊魂を認めるアニミズムの世界観が存在していた。ただ、そうした多くの霊物に囲まれながらも、村人たちの信仰する中心的な神が存在した。出雲の蛇神であるヤマタノオロチは、年毎に村を訪れて村の豊饒を予祝する神であったと思われる。この蛇神こそ多くの村々で祭っていた神であり、来訪すれば一夜妻に迎えられた。だが高天の原の新たな神から妖怪のように見なされ、ついには退治されることになる。クシナダヒメは、その名の通り奇(くし)稲田媛に相違なく、稲田の女神である。その稲田の女神と来訪する蛇神の神婚が、長い歴史の中で祭式として繰り返されていたのである。三輪山の神婚も蛇と土地の女との婚姻を語るものであり、タブーを破った土地の女が死ぬことはあっても、蛇神は三輪山に鎮座し続けていたのである。ところが、高天の原の神という新たな神の登場は、アニミズム的世界観を駆逐し、在地の神と対立し交替するという、文化交替の状況へと展開した。常陸国風土記の行方郡の話では、継体天皇の時代に箭括麻多智という者が谷を開墾した時に、夜刀の神という蛇神がたくさんいて、開墾を阻止したという。そこで麻多智は鎧兜に身を固めて夜刀の神を打ち殺し、標識を建てて神の土地と人間の土地とを区別し、以後は私が神の祝となり子々孫々祭りを行うので、祟ることはするなといい、社を建立して祀ったというのである。ところが、孝徳天皇の時代に壬生麻呂という男が、谷を占有し池を築いた時に夜刀の神が現れ阻止するので、麻呂はこの池を築くのは民を活かすためであり、なぜ天皇の王化に従わないのかと述べ、役人に悉く打ち殺せと命じると神は退散したという。ついに在地の神は、天皇と対立の果てに自らの土地を奪われ退散して行くのである。高天の原の神とは、この王化を推し進める神々の体系であり、在地の神の上に君臨する偉大な神の登場を意味した。アニミズムから出発する神は自然の霊格を持つ存在であるが、神が人型を取るのは文化的な成熟を経たことによるものであり、そのような神を産み出したのは高天の原の神の登場にあったといえる。先の三貴子も自然の霊格を幾分は保っているが、むしろ人格神としての要素が強い。在地の神は〈自然〉として、高天の原の神は〈文化〉として認識され、その交替のドラマが日本古代の神々の姿であった。そうした文化的神の成長のもとに、天皇は神として讃えられる。「大君は神」という天皇即神の思想である。天皇が神と称えられたのは壬申の乱に勝利した天武天皇に始まるが、柿本人麻呂は雷丘に行幸した天皇を天雲の雷の上に住まわれることだと称賛する(3-235)。この時代に土地の偉大な精霊であった〈スメロキ〉という古い霊格は、〈天皇〉へと翻訳される。いわばスメロキから天皇へと変質する段階に、天皇即神の思想が登場するのである。〈天皇〉という漢字は、天上に煌々と輝く天なる神を指し、中国の皇帝と等しい意味である。始皇帝は天上の神を自らの称号へと写し取り、偉大なる宇宙の王を名乗った。しかし、漢代以後の制度では皇帝も天の神の子、即ち天子であり、天の神を超越することはなかったのである。日本が受け入れた天皇号は、スメロキという古格を継承する。このスメロキは祖先神の意味合いが強く、天皇と表記しても律令的天皇であるよりも祖先の霊格を表しているのである。万葉集に「皇祖神」(3-443)「皇祖神之神」(7-1133)「皇神祖乃可見」(18-4111)などと見えるのは、いずれもスメロキと訓まれる表記であり、大伴家持の歌に「須売呂伎の可末」とあるのと等しい。万葉の時代にはスメロキという古語の意味は忘れられ、皇祖の意味が現れて現天皇も皇祖の霊を継承する存在であることから、スメロキやスメラコミトと呼ばれた。そのもとは地方に見られる〈スメ神〉にあり、それが高天の原の神学体系に組み入れられ、天皇を頂点とする地上の神々の体系が成立したのである。折口信夫「大嘗祭の本義」『全集3』(中央公論社)。津田左右吉「天皇考」『全集9』(岩波書店)。辰巳正明「王の神学」『詩霊論』(笠間書院)。
245かみ神辰巳正明か1
資料ID31854

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