いでまし

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名いでまし;行幸
+表記行幸
TitleIdemashi
テキスト内容いづの尊敬語いでますの名詞形。①天皇の宮外へのお出まし。②皇子や皇女等のお出かけ。③葬送。①万葉集に「いでまし」と訓む仮名書き例はないが、紀の670(天智9)年5月条の童謡(124)に「伊提麻志能」とある。「行幸」を3音の場合、接頭語み+行くの名詞形で「みゆき」(9-1749)と訓み、お出かけの意で用いられてもいる。『後漢書』「光武紀」建武元年条の「己亥幸懐」には、「天子所行、必有恩幸、故稱幸」と注されており、天子の外出を讃える表現として使用される。記の応神天皇条では、天皇が近江国に越え幸しし時に、宇遅野のあたりに立って葛野を望み国見歌を詠んだとある。神武紀31年には「皇輿巡幸(すめらみことめぐりいでま)す」とみえ、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登って国見をしたと記される。天皇が巡幸する目的の一つに国見の存在が見出される。万葉集では舒明天皇の国見歌(1-2)につながる事例といえる。歌表現からは「遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の」(1-5)と、天孫に連なる大君の巡行が見出される。臣下には行幸先で詔に応えて歌を詠む場が与えられ、吉野行幸に従駕した大伴旅人などは「み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変わらずあらむ 行幸の宮」(3-315)と、貴く清らかな吉野の山川の景色とともに、永遠に存在し続ける吉野離宮を寿ぐ準備をした。宮の永遠が吉野の持つ仙郷のイメージと重ね合せ詠まれている。行幸先は吉野に限らず「住吉の野木の松原遠つ神我が大君の幸行処(いでましどころ)」(3-295)と顕彰すべき地として讃えられる。その雰囲気は記紀に見えた国見には遠く「歌思ひ 辞思ほしし」(3-322)と遊覧を楽しみ「遠き代に 神さび行かむ 行幸処」(3-322)と願われる空間を詠出している。②亡き皇子や皇女が生前に外出した様子を回想する。草壁皇子の薨去を悼む舎人はめぐる季節の到来に、皇子が宇陀の大野へ狩りに出かけられていた姿を思い起こす(2-191)。柿本人麻呂は、明日香皇女が夫忍壁皇子とのお出かけを「出でまして 遊びたまひし」(2-196)と表現している。いずれも挽歌での使用が特徴的である。③同じ挽歌でも志貴皇子歌の場合は「天皇の 神の皇子の 出でましの 手火の光そ そこば照りたる」(2-230)と、その内容から葬送を表すと考えられる。辰巳正明『万葉集と中国文学』(笠間書院)。辰巳正明『万葉集と中国文学』第二(笠間書院)。
+執筆者市瀬雅之
-68279402009/07/06hoshino.seiji00DSG000105いでまし;行幸Idemashiいづの尊敬語いでますの名詞形。①天皇の宮外へのお出まし。②皇子や皇女等のお出かけ。③葬送。①万葉集に「いでまし」と訓む仮名書き例はないが、紀の670(天智9)年5月条の童謡(124)に「伊提麻志能」とある。「行幸」を3音の場合、接頭語み+行くの名詞形で「みゆき」(9-1749)と訓み、お出かけの意で用いられてもいる。『後漢書』「光武紀」建武元年条の「己亥幸懐」には、「天子所行、必有恩幸、故稱幸」と注されており、天子の外出を讃える表現として使用される。記の応神天皇条では、天皇が近江国に越え幸しし時に、宇遅野のあたりに立って葛野を望み国見歌を詠んだとある。神武紀31年には「皇輿巡幸(すめらみことめぐりいでま)す」とみえ、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登って国見をしたと記される。天皇が巡幸する目的の一つに国見の存在が見出される。万葉集では舒明天皇の国見歌(1-2)につながる事例といえる。歌表現からは「遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の」(1-5)と、天孫に連なる大君の巡行が見出される。臣下には行幸先で詔に応えて歌を詠む場が与えられ、吉野行幸に従駕した大伴旅人などは「み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変わらずあらむ 行幸の宮」(3-315)と、貴く清らかな吉野の山川の景色とともに、永遠に存在し続ける吉野離宮を寿ぐ準備をした。宮の永遠が吉野の持つ仙郷のイメージと重ね合せ詠まれている。行幸先は吉野に限らず「住吉の野木の松原遠つ神我が大君の幸行処(いでましどころ)」(3-295)と顕彰すべき地として讃えられる。その雰囲気は記紀に見えた国見には遠く「歌思ひ 辞思ほしし」(3-322)と遊覧を楽しみ「遠き代に 神さび行かむ 行幸処」(3-322)と願われる空間を詠出している。②亡き皇子や皇女が生前に外出した様子を回想する。草壁皇子の薨去を悼む舎人はめぐる季節の到来に、皇子が宇陀の大野へ狩りに出かけられていた姿を思い起こす(2-191)。柿本人麻呂は、明日香皇女が夫忍壁皇子とのお出かけを「出でまして 遊びたまひし」(2-196)と表現している。いずれも挽歌での使用が特徴的である。③同じ挽歌でも志貴皇子歌の場合は「天皇の 神の皇子の 出でましの 手火の光そ そこば照りたる」(2-230)と、その内容から葬送を表すと考えられる。辰巳正明『万葉集と中国文学』(笠間書院)。辰巳正明『万葉集と中国文学』第二(笠間書院)。
106いでまし行幸市瀬雅之い1
資料ID31715

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