石神神宮

いそのかみ

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名いそのかみ;石上
+表記石上
TitleIsonokami
テキスト内容①奈良県天理市の地名。式内社石上神宮を中心とした一帯の総称。②枕詞として地名「布留」と同音の「ふる(降る・古る)」にかかる。万葉集中10例を数え、うち9例が①の意だが、それらは「石上布留の里」(9-1787)のようにすべて地名「布留」と連続して用いられる。『時代別国語大辞典』が言及するとおり、「ささなみの志賀」「大伴の御津」などと同じく広狭二つの地名を重ねた表現である。②はそこから派生した用法で「石上降るとも雨に」(6-664)とあり、平安時代以降の和歌にも「いそのかみふりにし里」(『古今和歌集』17-870)のように継承されて歌枕となる。さらに転じて古びたものを単に「石上」ということもあり、その用例が『大和物語』46段などに見えている。「石上布留の早稲田(わさだ)」の例2例(7-1353、9-1768)は「穂」に出ない=人目につかない恋をうたったもの、「石上布留の神杉(かむすぎ)」の例2例(10-1927、11-2417)は自身の神さびた恋を詠嘆するものであり、いずれも恋歌ではあるが、聖域(神域)としての石上をとらえた例として注意される。とくに「神杉」は「三輪の神杉」と並ぶ石上布留の特徴的景物であり、「石上布留の山なる杉群」(3-422)ともうたわれる。万葉集ではこれらすべてを「石上振」と表記し、履中天皇即位前紀にも「石上振神宮」とある。『和名抄』には大和国山邊郡所管郷として「石上(伊曽乃加美)」を載せる。地名「布留」は旧布留村、現天理市布留町に継承。布留川の扇状地に位置し、石上神宮は同地に鎮座する。『延喜式』神名大和国山邊郡に「石上坐布都御魂神社〔名神大。月次相嘗新嘗〕」が登録される。布都御魂は神武記では建御雷(たけみかづち)神が高倉下(たかくらじ)を介して神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)に与えた横刀としてあらわれ、「此の刀は、石上神宮に坐すぞ」の注記がある。垂仁紀39年条には五十瓊敷(いにしき)命が茅渟(ちぬ)の菟砥(うと)川上宮で剣一千口を作り石上神宮に蔵め、後には五十瓊敷命に石上神宮の神宝を管理させたことが見える。また同条の「一云」には神の求めによって春日臣の一族・市河にその管理をさせたといい、市河は物部首の始祖と記す。石上神宮と刀剣・武器との関係を示す資料は多く、有名な七支刀はこの神社に伝来。上記の物部首氏は天武朝に布留宿祢姓を賜るが、饒速日命を祖と伝え大和朝廷の軍事的伴造として仕えた物部連氏(天武朝に朝臣)とは別系統で、布留地域の在地豪族と見られる。なお、物部朝臣氏はその本流がやがて石上朝臣を称する。上田正昭「石上の神宝と祭祀」『古代伝承史の研究』(塙書房)。
+執筆者影山尚之
-68272402009/07/06hoshino.seiji00DSG000098いそのかみ;石上Isonokami①奈良県天理市の地名。式内社石上神宮を中心とした一帯の総称。②枕詞として地名「布留」と同音の「ふる(降る・古る)」にかかる。万葉集中10例を数え、うち9例が①の意だが、それらは「石上布留の里」(9-1787)のようにすべて地名「布留」と連続して用いられる。『時代別国語大辞典』が言及するとおり、「ささなみの志賀」「大伴の御津」などと同じく広狭二つの地名を重ねた表現である。②はそこから派生した用法で「石上降るとも雨に」(6-664)とあり、平安時代以降の和歌にも「いそのかみふりにし里」(『古今和歌集』17-870)のように継承されて歌枕となる。さらに転じて古びたものを単に「石上」ということもあり、その用例が『大和物語』46段などに見えている。「石上布留の早稲田(わさだ)」の例2例(7-1353、9-1768)は「穂」に出ない=人目につかない恋をうたったもの、「石上布留の神杉(かむすぎ)」の例2例(10-1927、11-2417)は自身の神さびた恋を詠嘆するものであり、いずれも恋歌ではあるが、聖域(神域)としての石上をとらえた例として注意される。とくに「神杉」は「三輪の神杉」と並ぶ石上布留の特徴的景物であり、「石上布留の山なる杉群」(3-422)ともうたわれる。万葉集ではこれらすべてを「石上振」と表記し、履中天皇即位前紀にも「石上振神宮」とある。『和名抄』には大和国山邊郡所管郷として「石上(伊曽乃加美)」を載せる。地名「布留」は旧布留村、現天理市布留町に継承。布留川の扇状地に位置し、石上神宮は同地に鎮座する。『延喜式』神名大和国山邊郡に「石上坐布都御魂神社〔名神大。月次相嘗新嘗〕」が登録される。布都御魂は神武記では建御雷(たけみかづち)神が高倉下(たかくらじ)を介して神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)に与えた横刀としてあらわれ、「此の刀は、石上神宮に坐すぞ」の注記がある。垂仁紀39年条には五十瓊敷(いにしき)命が茅渟(ちぬ)の菟砥(うと)川上宮で剣一千口を作り石上神宮に蔵め、後には五十瓊敷命に石上神宮の神宝を管理させたことが見える。また同条の「一云」には神の求めによって春日臣の一族・市河にその管理をさせたといい、市河は物部首の始祖と記す。石上神宮と刀剣・武器との関係を示す資料は多く、有名な七支刀はこの神社に伝来。上記の物部首氏は天武朝に布留宿祢姓を賜るが、饒速日命を祖と伝え大和朝廷の軍事的伴造として仕えた物部連氏(天武朝に朝臣)とは別系統で、布留地域の在地豪族と見られる。なお、物部朝臣氏はその本流がやがて石上朝臣を称する。上田正昭「石上の神宝と祭祀」『古代伝承史の研究』(塙書房)。99いそのかみ石上影山尚之い1
資料ID31708

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