【解説】久我家文書 後伏見上皇宸筆伏見上皇御消息案(他31点)
大分類 | 図書館デジタルライブラリー |
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中分類 | 古文書・古筆切関係 |
小分類 | 久我家文書 後伏見上皇宸筆伏見上皇御消息案(他31 |
分野分類 CB | 歴史学 |
文化財分類 CB | 図書 |
資料形式 CB | テキストデータベース |
+解説 | 久我家文書解説 久我家文書と久我家領 國學院大學名誉教授 小川 信 はじめに 久我家文書(こがけもんじょ)は旧侯爵久我家に伝来した平安末期から明治時代におよぶ約2800点を数える公家文書であり、現在は國學院大學図書館の所蔵となっている。 昭和63年(1988)6月、久我家文書の大部分にあたる2461点(枝番号・紙背文書・挟込文書を加えると2775点)が国の重要文化財に指定されたのにともない、翌平成元年7月から国庫および東京都の補助を受けた補修事業が開始され、ここに平成8年3月31日を以て6年8ヶ月にわたる補修が完了するにいたった(詳細は本図録掲載の「久我家文書の補修について」参照)。 このたび京都国立博物館ならびに東京国立博物館において“特別展観中世の貴族-重要文化財久我家文書修復完成記念-”が開催される運びとなり、重要文化財指定文書のうち主に中世文書のなかから100点(枝番号を含めて184点)を厳選し、指定外2点(付1・付2)を加えて展示することとなった。この図録にはこれらの展観文書の写真版・釈文・解説などを収録しているので、ここに私はこれらの展観文書を中心に久我家文書の内容を概観しながら、久我家の活動や久我家領荘園の推移の一端に触れることとしたい。 1 久我家と久我家文書 久我家は村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の子で寛仁4年(1020)臣籍に下った源師房(もろふさ)を祖とする村上源氏の家系である。師房は後三条天皇より右大臣に任じられて天皇の親政を補佐し、その子俊房・顕房(あきふさ)兄弟は白河天皇のもとで左・右大臣となり同天皇の院政期におよんだ。顕房の娘賢子(けんし)は関白藤原師実の養女として白河天皇の中宮、堀河天皇の生母となった。賢子の同母弟雅実は保安3年(1122)源氏として初めて太政大臣に昇り、京都西南郊の久我に顕房以来営んだ別業(別荘)「久我水閣」に因んで久我太政大臣とよばれた。これが久我家の家名の由来であるが、雅実の子孫である中院(なかのいん)流の人々は、嫡系三代すなわち雅定・雅通・通親がそれぞれ中院右大臣・久我内大臣・土御門内大臣と称せられているだけで、まだ特定の家名はなかった。 鎌倉初期、後鳥羽院の親政および院政初期における土御門通親の権勢は有名であるが、その嫡子通光は後嵯峨院のもとで太政大臣となり、このころから中院流諸家の家名も定まり、久我・堀川・六条・土御門・中院・北畠などの家名を称する。朝廷における公家の家格が固定するにつれて、中院流諸家の嫡流にあたる久我家は、近衛家・九条家などの5摂家につぐ7清華家(せいがけ)(江戸初期以降は9清華家)、すなわち近衛大将をへて太政大臣まで昇進できる家柄の一つとなり、事実通光の曾孫通雄以来ほぼ歴代太政大臣に昇った。しかし戦国時代からは右大臣、さらに権大納言止まりとなり、ことに近世初頭、当主通俊は正親町天皇から、次の当主敦通(あつみち)は後陽成天皇からと、二代続いて勅勘をこうむったことは、久我家の地位の低下を助長した。しかし敦通の嫡孫広通は、しきりに江戸幕府に運動して家領回復等にもある程度成功し、以後はほぼ歴代右大臣または内大臣となった。 幕末・維新期には久我建通(たけみち)・通久(みちつね)父子の活動が注目される。建通は孝明天皇のもとで攘夷運動に参画し、文久2年(1862)内大臣となるが、公武合体派の中心人物の一人と目されて同年辞官・蟄居し、慶応3年(1867)12月王政復古とともにようやく蟄居を解かれた。ついで明治3年(1870)華族触頭(ふれがしら)となり、さらに賀茂別雷(わけいかづち)神社大宮司・大教正・宮内省御用掛・文学御用掛・宸翰御用掛等を歴任した。その嫡子通久は慶応4年(明治元年)権大納言となり、明治維新政府の軍政に加わって大和鎮撫総督・東北遊撃軍将・兵部少輔等を歴任した。のち明治17年(1884)華族令発布にともない、通久は侯爵となり、さらに貴族院議員・東京府知事等として活躍する。 明治15年(1882)國學院大學の前身である皇典講究所が創立されるにあたって久我建通は副総裁に推挙され、総裁有栖川宮幟仁(たかひと)親王を補佐して同所の発展に努め、在任のまま明治36年(1903)89歳の天寿を全うした。 この建通の活動が縁となり、昭和6年以来三回にわたり、時の久我家当主常通侯から久我家文書の大部分が本学に寄託され、さらに昭和26年(1951)当主久我通顕氏より正式に本学に譲渡された。これらの詳しい経過、およびその間における岩橋小弥太・村田正志・藤井貞文各博士の尽力と研究は、次に引く『久我家文書』別巻所収の解説を参照されたい。また久我家と当道座(盲目法師の座)の関係を主とする近世文書の一部は久我家から折口信夫博士に譲渡されたが、昭和29年同博士の御遺族から本学に寄贈され、同じく本学の所蔵となった。 久我家文書のうち安土桃山期までの文書の大半と江戸期・明治期の文書の一部は昭和32年(1957)から11年間にわたり『國學院雑誌』に翻刻・掲載されたが、さらに國學院大學百周年記念出版の一つとして本文書の大半にあたる2249点(枝番号等を加えると2645点)が昭和57年(1982)から昭和62年まで5年にわたり全4巻として翻刻・刊行され、かつ第4巻刊行と同時に解説と編年総目録よりなる別巻を刊行して出版事業を完了した。 今日までに公刊されている久我家文書以外の主な公家文書としては、ともに宮内庁書陵部所蔵の九条家文書と壬生家(みぶけ)文書とがあるにすぎない。前者は摂関家の九条家に伝来した文書群で、そのうち平安中期から江戸初期までの家領文書を主とした2199点が『図書寮叢刊、九条家文書』として刊行された。また後者は太政官の左大史、主殿頭(とのものかみ)などを世襲して官務家と称された壬生家(小槻氏)に伝来した文書群で、江戸後期までの文書のうち2581点が『図書寮叢刊、壬生家文書』として刊行されている。そこで、清華家の久我家文書は、摂関家の九条家文書や官務家の壬生家文書などとあいまって、中世以来の公家および公家領を研究するために必須の、代表的な公家文書であるといえる。 久我家文書は、前記のような久我家の中世初期以来の地位や活動を反映した文書群であり、内容はほぼ家領関係の文書を主とする中世史料、儀礼・文芸等に関する文書の多い近世史料、および久我建通・通久の活動に関する明治期の史料に三大別することができるが、以下には特別展観に則して中世文書を中心に見通すものとする。 2 宮廷生活と文芸活動の反映 久我家文書のなかで宮廷生活を示す文書や文芸関係の史料には、注目に値するものを含んでいる。その一つは展観の冒頭にかかげた後伏見上皇宸筆伏見上皇御消息案(1号)であり、皇位継承についての伏見上皇の深い慮(おもんばか)りを感じ取ることができる。久我家文書にこの御消息案が存在する事情は詳らかでないが、あるいは時の前内大臣久我通基が後伏見天皇の諮問に与り、枢機に参画したためではあるまいか。 覚空(北畠親房)自筆書状(3号)は、単に有名人の自筆というだけでなく、内容にも見るべきものがある。当時、親房の主導する南朝方は、足利直義の和平提案に応じつつあり、親房が同じ村上源氏中院流一門の前太政大臣久我長通に自邸回復の斡旋を感謝したこの自筆書状にも、彼の京都回復・統一政権樹立への意欲が言外にみられる。 一門の六条有国の任官・位階昇進を推挙した久我豊通の書状草案(6号)は、久我家当主の源氏長者としての官位推挙権を示している。後述の岩内鎮慶書状(67号)が、久我通俊が北畠国茂・具俊父子の官位を希望通り調えたことを感謝し、国茂は中将昇進を望むとしていることも、時の久我家当主が源氏長者であることによるものであろう。 久我家の地位を反映する文書群として、展観に供した二種の久我家重書(8号・9号)がある。8号(1)~(15)は後醍醐天皇の綸旨(りんじ)6通、後光厳天皇の綸旨4通、後光厳上皇の院宣(いんぜん)2通、後花園天皇の綸旨・後花園上皇の院宣・後村上天皇の綸旨各1通、計15通の正文を1巻に仕立てたものであり、内容は久我家領の充行(あておこない)・安堵を主とするが、鎌倉末から建武新政期にかけての後醍醐天皇の綸旨が目立つことには、当時の久我家当主長通の地位とその活動が反映し、また後光厳天皇の綸旨・院宣も後醍醐天皇綸旨と同様6通を数えることは、北朝における久我家当主通相・具通父子の地歩の現われとみられる。後村上天皇綸旨(8号<15>)は久我家文書における唯一の南朝綸旨であるが、これは南朝軍が京都を一時占拠した際のもので、政治・軍事情勢への久我家の機敏な対応がわかる。 右の久我家重書以外の久我家文書における中世の院宣・綸旨の正文には、後伏見上皇院宣・後醍醐天皇綸旨・後土御門天皇綸旨・後柏原天皇綸旨各1通、後奈良天皇綸旨2通があり、後奈良天皇女房奉書2通もある。これらは主に家領荘園や関所・座などの権益にかかわるもので、後に触れることとする。なお江戸時代には後光明天皇以下の綸旨が41通に上り、これらは種々の儀式に際し主に久我家当主に上卿(しょうけい)・内弁・外弁(げべん)などとしての参仕を仰せ付けたものであり、院宣には久我通兄に御会始の詩題作進を命じた霊元上皇のそれがあり、中世の綸旨・院宣と異なって朝儀を内容とするところに近世の朝廷の性格が現われている。 9号(1)~(28)は、関東御教書(みぎょうしょ)2通、室町将軍家の直状15通のほか、室町幕府奉行人連署奉書や伊勢国司北畠家の書状などを加えた計28通の正文を巻子に仕立てたものである。内容は洛中敷地・家領荘園を対象とした安堵・渡進・狼藉停止(ちょうじ)などを主とするが、過半の15通を室町将軍の直状である御判(ごはん)御教書・御内書(ごないしょ)・禁制が占める。そのうち足利尊氏のものが10通に上ることからも、尊氏以下の歴代将軍が清華家の久我家を尊重していることがうかがわれる。これらの9号所載の重書のほか、久我家文書の正文には関東御教書・関東下知状計5通(但し3通は久我家伝領以前)があり、また足利直義裁許状5通、足利義詮裁許状1通、足利直義・義詮・義満・義教・義政の御教書が計7通を数えることも、久我家と鎌倉・室町幕府の密接な関係を示すものといえる。 中世の朝儀の記録としては、久我具通が権大納言昇進の拝賀を行なった時の元日節会記(せちえき)(4号<1>)と久我通尚の中納言昇進拝賀の時の踏歌(とうかの)節会記(4号<2>)が主なものである。なお近世の朝儀では天正18年(1590)後陽成天皇の新造内裏遷幸次第、元禄9年(1696)の内侍所(ないしどころ)仮殿遷座次第などが存在する。なお近世文書では、武士などに官位を授けた後陽成天皇の口宣案(くぜんあん)54通をはじめ、久我家当主が上卿を勤めた際の消息宣下(しょうそくせんげ)文書(口宣案等の発行手続き文書)が600通近く伝わり、また当主が武家伝奏(てんそう)を勤めた際の徳川将軍家御内書以下、公武間の贈答に関する文書も伝来する。 文芸史料中の白眉というべきものは、伏見天皇宸筆御和歌集断簡(付1号)、すなわち世にいう広沢切(ひろさわぎれ)であり、これは前に述べた覚空(北畠親房)自筆書状などとともに旧重要美術品の一つである。このほか、文芸史料では天正19年(1591)の和漢聯句・禁裏千句等の抄出(刊1691号)、正徳4年(1714)伊達吉村の要請で仙台領の名所を詠じた公家衆の和歌集(指定外)などがある。絵図には大和国内の歴代天皇の御陵を所在郡別に配列した歴代御陵絵図がある(付2号)。 書状では連歌師里村紹巴(じょうは)の久我敦通(あつみち)宛書状2通(10号・11号)、里村昌叱(しょうしつ)・同昌琢(しょうたく)・渋斎紹之(じょうし)のおなじく敦通宛と推定される書状(12号~15号)が、公家と連歌師との交流を物語る。なお今回は修復直後のため展示できないが、千利休の宗伝宛書状がある(刊1690号)。ただしこの利休書状が久我家の所蔵となった経緯は明らかでない。 3 久我家領の成立と展開 中院流家領目録草案(16号)は、平安末期の中院右大臣雅定の陸奥から豊前にわたる71ヶ所に上る家領で、中院流諸家の家領の淵源がわかる。またこれらの家領の多くが皇室を本家と仰ぎ、その領家職や預所職を保ったものであったことから、当時の中院流村上源氏の皇室との経済的結合の在り方がわかる。しかしこの多数の家領は分割相続、さらに他家への譲与や寺社への寄進によって、しだいに分散していった。たとえば越後国加地荘は雅定の猶子(ゆうし)堀河定房の家領となり、また山城国東久世(ひがしくぜ)荘・駿河国蒲原(かんばら)荘・伊予国大島荘等は雅定の孫(通親の弟)唐橋通資の家領になり、このうち東久世荘は通資の子雅親からその外孫土御門定実に譲られ、蒲原荘は通資の子雅清から石清水八幡宮に寄進された。 しかも「久我家根本家領相伝文書案」(17号<1>~<8>)によって知られるように、鎌倉中期には、久我家に伝領された諸荘をめぐって一族間に相続争いが起こり、結局家領の一部は縁故関係を通じて鎌倉末期に他家の家領となった。すなわち久我通光が遺産のすべてを夫人三条(西蓮)に譲って逝去すると、通光の嫡子通忠はただちに継母三条を相手として後嵯峨上皇に訴え、その結果、久我荘は通忠の領有、その他の荘園は三条の領有などとする院宣が下った。やがて西蓮(三条)は肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑荘(御厨)の三荘をその娘如月に、その死後は西園寺実兼夫人源顕子(けんし)(如月の従兄弟中院通成の娘)に譲ることを条件として譲り、如月はやがて母の条件を守って顕子に譲った。 こうして根本家領のうち久我家嫡流に留まったのは久我荘のみとなり、山本等の三荘は関東申次(もうしつぎ)として鎌倉幕府と結び権勢を誇る西園寺家に帰した。なお田根荘は顕子から嫡子西園寺公衡(きんひら)に譲られ、公衡は同荘を春日社に寄進し、興福寺東北院門跡の管轄とした。この間久我通光の孫中院雅相(中院雅忠の子)は如月を相手取って家領回復の訴訟を起こしたが、西園寺公衡にたいして後宇多上皇の院宣が下り、雅相の主張は退けられた。やがて鎌倉幕府の滅亡などにより西園寺家が権勢を失うと、久我家当主長通は家領回復運動を起こして成功したと推定され、田根荘は康永元年(1342)の足利直義裁許状(刊62号)に「領家久我太政大臣(長通)家」とある。 観応元年(1350)に長通が嫡子通相に全財産を譲与した譲状(23号)に記される「根本家領」は、「家領名区」と「遠国家領」からなる。前者は京都南西郊の久我荘以下の六荘であり、後者は西園寺家から取り戻した伊勢国石榑御厨・近江国田根荘・肥後国山本荘の三荘である。また別に「洛中名区」として、「大王(具平親王)名跡」と注記された千種町(ちぐさまち)方四町をはじめ、祖先師房・顕房・通親・通光等の邸宅跡および当時居住の邸宅等よりなる9筆の屋敷地が記されている。 ところで、鎌倉中期に家領の大部分を喪失した久我家にとって、財政的窮乏を緩和する結果となったのは、池大納言(いけのだいなごん)すなわち平頼盛の家領の一部が姻戚関係によって久我家に伝来したことである。その経過は「池大納言家領相伝文書案」(18号<1>~<19>)に詳しい。池大納言家領とは、頼朝が平清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)に助命された恩義に報いるため、平家都落ち直後に禅尼の実子の池大納言頼盛を鎌倉に招いて返付した、平家没官領(もっかんりょう)のうちの頼盛領34ヶ所であり、その経緯は『吾妻鏡』に記されているが、この相伝文書案の冒頭には『吾妻鏡』の誤記・脱漏を訂正できる源頼朝下文案3通が含まれている。 さて、この文書案によると、頼盛の子息光盛(入道円性)は頼盛遺領のうち9ヶ所と他の由緒による家領2ヶ所の合わせて11ヶ所を7人の娘に分譲したが、光盛の長女安嘉門院宣旨局は頼盛遺領のうち播磨国石作荘をのちに久我通忠の嫡子通基に譲るという条件で五条という女性に譲り、一方尾張国真清田(ますみだ)社・河内国大和田荘・伊勢国木造(こづくり)荘と洛中梅小路の地を久我通忠後室に譲った。また四女の三条局(前述の西蓮とは別人)は、頼盛領のうち美作国弓削荘・備前国佐伯荘・尾張国海東(かいとう)上荘・同中荘を姉妹の久我通忠後室に譲った。通忠は久我通光の嫡子である。正応2年(1289)、通忠後室は大和田・木造・海東上・中の諸荘を通基に譲り、五条も約束通り石作荘を通基に譲った。以上が「池大納言家領相伝文書案」による所見である。こうして池大納言家領の一部は久我家領となったが、これは久我家の姻戚である安嘉門院宣旨局や三条局が、西蓮の家領専有などのため苦況に陥った久我家にたいして、全面的な援助を加えたためと推測される。なお通忠夫人はその実の娘とみられる久我殿の姫君すなわち小坂禅尼に真清田社を譲り、三条局も所領のうち播磨国這田(ほうた)荘を小坂禅尼に譲った(19号、池大納言家領相伝系図)。 通基の家領となった頼盛遺領石作・大和田・海東上・同中・木造の5荘は通基の嫡子通雄が相続したが、通雄は末子通定を偏愛して嫡子長通を勘当し、5荘をすべて通定に譲った。しかし通雄が元徳元年(1329)に逝去すると、長通は後醍醐天皇に訴えて、祖父通基の素意により家門を管領し、通定が頼盛遺領にことよせて鎌倉幕府に申請した不当を弁明せよという綸旨(20号)を申し賜り、この綸旨にもとづいて長通は幕府に訴え、右の諸荘の安堵と、この諸荘にたいする通定の雑掌の濫妨狼藉禁止という、2通の関東御教書を受けた(21号・22号)。 長通はこの5荘を回復したばかりでなく、鎌倉幕府滅亡後まもなく、後醍醐天皇帰京の翌日の元弘3年(1333)6月9日付で播磨国這田荘安堵の綸旨を受け(刊42号)、また建武政権下に尾張国一宮(いちのみや)すなわち真清田社等も長通の領有に帰した(8号<3>)。さらに建武3年(1336)8月、室町幕府の開創と前後していち早く足利尊氏から家領にたいする違乱停止・所務保全の御判御教書(9号<1>)を受けたのをはじめ、しばしば室町幕府から這田荘・田根荘・海東上中荘・真清田社などに関する安堵や裁決を受けた。 そこで長通の譲状(23号)に記す久我家領は、京都近郊の「家領名区」6荘、「洛中名区」9ヶ所、一旦西園寺家領になった「遠国家領」3荘、「外家相伝池大納言家領」1社・6荘、洛中屋敷地2ヶ所という、相当多数の家領が記載されるにいたった。なお「斯外(このほか)不慮違乱所々」として大和国野辺荘・美濃国弓削田荘・同国3村・美作国弓削荘・備前国佐伯荘の5ヶ所を記す。この5ヶ所の内、前3荘は平光盛から3人の息女にそれぞれ譲った所領の内に見え、後2荘は前述のように三条局から久我通忠後室に譲られているが、久我家領となった確証は存在しない。長通はこれらの諸荘をも“回復”したいと希望したのであるが、それは実現しなかった。 このように長通は後醍醐天皇親政→鎌倉幕府滅亡→建武政権成立→室町幕府開創といった大変動に機敏に対処して、多数の家領の回復に見事な手腕を発揮した。長通が右の譲状に家記・所領等をすべて家督通相のみに譲る旨を明記して、いち早く単独相続制に切り替えたことは、彼自身が苦心の結果克ち取った家産が再び散逸することを防ぎ、すべてを久我家嫡流に伝えようとする強い意欲のあらわれであったに相違ない。 4 京都近郊家領の軌跡 中世社会は荘園公領制の社会と規定されているように、中世の社会・経済における公家領・寺社領荘園の重要性は否定できない。しかし、これらの荘園はしだいに守護や在地国人などに侵害され、やがて一般に武士の知行地と化した。久我家領荘園においてもその傾向を免れず、ことに地方の家領荘園の多くは15世紀後半、応仁の乱前後に消滅している。とはいえ、京都近郊の家領荘園は16世紀後期の戦国末まで維持されたし、地方の久我家領のなかでも、戦国大名や国人の支配下に入りながらも久我家領としての名目を保った場合が存在する。そこで本項では京都近郊の荘園を概観するとともに2荘を選び、次項では地方の家領を3ヶ所選んで、それらの推移を辿ってみよう。 a 京都近郊の家領荘園全般 久我長通譲状の冒頭に記された「家領名区」は「久世・東久世・久我本荘・同新荘・久我西荘・同新西荘」という京都西南郊の6荘からなる「山城国 久我領」であり、中院流家領目録草案の筆頭の「久我・久世」の後身とみられる。この「家領名区」は桂川下流西岸一帯に分布し、山城国乙訓(おとくに)郡条里指図案(さしず)(24号)に記す条里の範囲内におさまる諸荘である。これらの荘園は久我家にとって最も由緒ある家領であるにもかかわらず、久我荘以外は前述のように鎌倉時代に一旦久我家嫡流の手を離れたのであった。それゆえ長通はこれらの「名区」を庶子や他人に譲ってはならないとし、「段歩と雖も割□すべからざるの旨、後久我内大臣殿(通基)□に見ゆ」と特記したのである。 なお鎌倉時代には摂関家の九条家領にも久世荘があった。また久我家領本久世・東久世両荘に隣接する上久世・下久世両荘は、鎌倉時代には得宗(とくそう)(北条氏嫡流当主)領であったが、上久世荘は鎌倉幕府滅亡後一旦久我家領となり、建武3年(1336)7月の足利尊氏禁制にも久我家領として見える(9号<13>)。しかし同月1日尊氏が上久世・下久世両荘地頭職を東寺八幡宮に寄進して以来、両荘は東寺領荘園として存続する。下久世荘は東寺の直接支配地のほか30余の本所領からなり、そのうち4町7段は久我家領であった。 京都近郊の久我家領は、前述の久我長通譲状にあるように南北朝期には久我本荘(下久我荘)・同新荘(久我荘・上久我荘)・東久世荘(築山荘)・本久世荘(大藪荘)などに分かれていたが、応安5年(1372)の後光厳上皇院宣案(刊146号<3>)のように「山城国久我庄・同国久世庄」と一括表記される場合があった。 応仁の乱が勃発すると、山名宗全は久我荘・本荘・本久世荘(大藪)・東久世荘(築山)の諸荘から徴収する兵粮借米を免除し(25号)、また応仁の乱が終りに近づくと、室町幕府は西軍畠山義就の被官らの押領していた久我家領の「山城国所々」を返付した(26号)。 さらに戦国期の天文4年(1535)にも、幕府は「城州久我上下并森分・法久寺・大藪・樋爪(ひづめ)・同所々散在」の私的な半済を止めて久我家に一円領知(完全領有)を安堵しており(28号)、近郊の久我家領荘園が一括した家領として扱われている。なおこの幕府の安堵から東久世荘が除かれているのは、当時久我家が将軍近習の小笠原稙盛(たねもり)と同荘をめぐって係争中のためであった(後述45号・46号・9号<11>)。 永禄11年(1568)9月織田信長が足利義昭を擁して入京、10月18日義昭が将軍宣下を受けると、その翌々日、信長は早速久我家に久我上下荘・同所森分・東久世荘築山・大藪荘・勢多分を一円に安堵する朱印状を与え(刊765号<1>)、室町幕府は同日付でこれら諸荘等の名主百姓宛に、それぞれの事情に応じた文言を加えて久我家への年貢等納入を促した(39号・49号および刊656号・660号・662号・663号)。こうして京都近郊の久我家領はそのまま近世への第一歩を印したのである。 b 山城国久我荘 上久我荘(久我新荘・久我荘)・下久我荘(久我本荘)の両荘を中心として本西・成次・樋爪などから構成される広義の久我荘の荘域は、桂川下流西岸、ほぼ今日の京都市伏見区久我石原町・久我本町・森の宮・志水町に分布し、やや南の淀樋爪(ひづめ)町に飛び地があったことが当時の検注帳などからわかる。 久我荘は室町時代から戦国時代にかけても久我家の直務(じきむ)(直接経営)荘園として存続したので、応永3年(1396)の久我本荘検注帳(29号)・久我荘検柱帳案(30号)、同6年の久我本荘成次分坪付(刊148号)、文明8年(1476)の久我家領并諸散在田数指出帳案(刊614号<39>)、永正11年(1514)の久我荘名田・散田等帳(35号)その他の土地台帳類が伝わり、収取機構や内部構成がかなり明らかになる。 このうち応永の検注帳は久我上下荘の名田・給田等の構造のわかる最初の帳簿として貴重である。また永正の名田・散田等帳は名田に均等にかかる公事の内容や散田(荘園領主の直営地)の構造がわかり、また各名田は久我家の家司(けいし)(親王家・摂関家・大臣家などの庶務をつかさどる職員)や侍衆(さむらいしゅう)が「当名主」として管理にあたるようになったことがわかる。なお久我荘内森長富跡等代官職補任状草案(33号)にみられるように、家臣から没収した闕所地の森分は、一般の名田・散田とは別個に代官を補任して運営された。なお壇分・大弼(だいひつ)分・勢多分なども別個の支配区分であった。 名主職・代官職の補任による管理体制の再編・強化は、31号の室町幕府奉行人連署奉書にみられるような領主久我家に対する荘民の反抗や、36号の妙心院然誉和与状(わよじょう)からうかがわれる荘民の年貢対捍や隠田などを防ぐために有効であったにちがいない。こうした中で、32号のように久我家が久我荘内の田地を売る事態も起こったが、逆に34号のような荘内の土地の購入もあり、加地子(かじし)(地代)の収入を目的とする土地の売買は流動的に行なわれていた。なお32号の売券に捺してある「宇宙」印は、当主の御教書・寄進状・請取状などにも用いられ、戦国大名の家印(けいん)に先立つ久我家の家印として注目される。 桂川をへだてた隣荘の西園寺家領鳥羽荘との新関と渡し場をめぐる争いを幕府が裁決したのが37号の室町幕府奉行人連署奉書である。桂川と鴨川がこの付近で合流し、流路も不安定であったに違いないが、久我家の勝訴となったのは幕府に対する運動の成果であろう。 戦国期に久我荘の鎮守上久我大明神(菱妻(ひしづま)神社の前身か)の神事は、荘官・名主に補任されている家司や侍衆が本所久我家と相談の上、共同で運営し(38号)、久我家とその家臣たちの間に一種の連帯感が看取される。久我荘の直務支配の永続した秘密がここに潜んでいるに違いない。かくて前述のように、織田信長の入京後まもなく、久我上下荘等は他の近郊家領とともに信長の安堵を受け、同時に室町幕府によって保障され(39号)、次いで近世の家領へ移行することとなるのである。 c 山城国東久世荘 東久世荘はほぼ現在の京都市南区築山町を荘域とし、室町後期には築山荘とも呼ばれた。北から東は桂川に接し、北西は東寺領上久世荘に、西と南はそれぞれ久我家領本久世(大藪)荘と同上久我荘に接していた。京都近郊の久我家領はたいてい直務の形を維持したが、東久世荘のみは他家との所領争いがしばしばおこり、さらに武士の非法・押領に戦国末まで悩まされつづけた。 40号の東久世荘相伝系図は当荘が平安末期の久我内大臣雅通から庶流唐橋家をへて同じく庶流の土御門定実に伝領され、定実の娘桂禅尼正定から久我長通に伝えられたことを図示し、現に定実と尼正定の譲状案が存在する(刊167号<15><16>)。ただし尼正定譲状には当荘を「ゆへ(故)なくめしハな(召放)たれ」たとあるくらいで、伝領の根拠は弱かった。そこで定実の玄孫参議士御門通房は当荘相伝を主張したが、結局応安6年(1373)本家の常盤井宮満仁王の令旨が久我具通に下って久我家の勝訴となった(刊167号<19>)。 ところが応永年間には某尼(土御門家の関係者か)との相論(訴訟しての争い)がおこり、応永21年(1414)伝奏広橋兼宣は、「無理ながら」かの尼の知行を認めるという将軍義持の意向を久我家に伝えた(刊167号<14>)。やがて宝徳4年(1452)土御門家は断絶し、その遺領を相続した五条家(菅原氏)は当荘の領有を主張して訴訟を起こしたが、幕府は文正元年(1466)久我家が当荘の下地(したじ)と代官職を知行し、五条家には毎年本役20石を納付せよと通告した(41号)。五条為親はこの裁定に満足せず、文明9年(1477)再び幕府に訴えたが、同18年(1486)に幕府の仲介により、久我家が下地を領知し五条家に契米30石を支払うという条件で和与(和解)が成立した(刊298号)。 このように永年にわたり他の公家との相論が続いている間に、当荘の在地に進出したのは畠山被官増位(ますい)氏であった。当荘における増位氏の初見は応永22年(1415)であり(『大徳寺文書』之11、2770号)、その前年に当荘の知行を幕府から安堵された某尼の代官として入部したと推測される。畠山両家の合戦に当たり畠山義就(よしなり)の被官増位掃部助(かもんのすけ)は寛正元年(1460)主君義就とともに河内国嶽山(だけやま)城にこもったので、義就に替わって山城守護となった畠山政長は新たな当荘代官を入部させた。久我家はこの機会に当荘の返還と代官の更迭を幕府と後花園院に訴え、「武家下知」を追認した某年(文正元年か)12月の後花園上皇の院宣(8号<12>)によって当荘代官職の返付を受けた。 さらに文明18年(1486)久我家が五条家との和与にもとづいて当荘に代官を入部させようとすると、またもこれに抵抗したのは増位氏であった。久我家では幕府の実力者である細川政元に依頼し、同年10月、久我家代官に合力するようにとの細川政元奉行人奉書4通が、細川被官である近隣の地侍たちに出された(刊299号~302号)。 久我家が細川氏の勢力を借りて増位氏を排除したことは、有力細川被官上原元秀の非法押妨の引き金となる。元秀は明応2年(1493)5月、書状を西岡・中脈(なかすじ)の細川被官宛に出して、東久世荘の代官となったと自称して協力を要請し(42号)、この強引な上原の侵略にたいして久我家側は対抗措置を講じ、同年9月「西岡植松合戦」という紛争が起こる。なお同年6月当荘の指出帳(さしだしちよう)が作成された(44号)。これは荘官・荘民らが上原の強引な入部をきらって領家久我家に協力したあらわれであろう。 さて西岡植松合戦次第問答案(43号)によると、久我家は赤松政則に当荘の防衛を依頼し、政則の家臣宇野越前が当荘に派兵したところ、岡彦三郎が攻め寄せて合戦となり、岡は討死したとある。なお上原方の岡経久・利倉(とくら)忠俊の連署申状案には、安富八郎の代官石蔵(いしくら)が攻め入って合戦になったとある(刊319号)。安富八郎は細川氏の重臣安富元家の一族に違いないから、上原元秀と安富元家の相克がからんでいたことは疑いない。また石蔵(石倉)は当荘の地侍、岡・利倉は隣りの東寺領上・下久世荘の地侍であるから、紛争の根底には両方の地侍たちの対立があったと思われる。 翌10月上原元秀は他の細川被官と私闘して横死し、久我家にはようやく当荘直務支配の機会が訪れたが、それも束の間で、今度は将軍家近習の小笠原氏の押妨に見舞われる。それは明応4年(1495)の小笠原政清入道宗信の競望(けいもう)に始まるが、天文7年(1538)には宗信の嫡孫小笠原稙盛が当荘の領有を主張するにいたる。その経過は小笠原稙盛書状(45号)、六角定頼書状(46号)、足利義晴御内書(9号<11>)など一連の文書で知られ、小笠原は六角に依頼し、久我家は細川晴元を頼んで対立を深めたことがわかる。そして将軍義晴の御内書は、稙盛の主張を糺明するまでの間久我家に替地として近江国比江郷を進上するというもので、久我家にはたいへん不利な処置であった。替地は実行されなかったが、当荘の下地折半が実施され、久我家領は当荘の半分にすぎなくなる。 それ以来久我家は当荘の半分を直務支配したが、天文21年(1552)ころ三好長慶は当荘の名主・百姓中(「築山惣中」ともある)にあてて順次3通の折紙(料紙を横に二つ折りにした文書)の書状を出して、まず2月、東久世築山荘の本所分の年貢・諸成物の保管を命じ(47号)、ついで9月、当荘は天文17年までは片岡の領地か久我家の知行かと問い(刊609号)、さらに12月、保管させておいた年貢等は天文17年の当知行に任せて久我家の代官に進納せよと命じた(48号)。これらにより当荘公文(くもん)片岡氏が久我家の領有権を犯そうとしたこと、および「築山惣中(そうじゅう)」とよばれる村落の自治組織の存在がうかがわれる。 永禄11年(1569)織田信長が入京すると、久我家は久我上・下荘などとともに「東久世築山一職(いつしき)」を信長から安堵され(刊765号<1>)、さらに翌永禄12年3月には、かつて将軍義晴が小笠原稙盛に与えた「東久世荘号築山」の半分を返付し、一円に領掌することを認めるという将軍義昭の御判御教書が久我晴通宛に発行され(9号<9>)、かつ同年5月、稙盛の子又六の「濫望」を止めるという幕府奉行人奉書が出された(刊672号)。 京都近郊の家領のなかで、東久世荘のみが他家との係争や種々の武士の侵害を多く受けた原因は単純でないが、そもそも久我家の当荘領有の根拠が薄弱であったことが要因であろう。さらに豊臣秀吉は上下久我荘のみを近郊の久我家領として認定したので、当荘は久我家との縁をまったく断つこととなった。 5 地方の家領の軌跡 a 尾張国真清田社 尾張一宮の真清田(ますみだ)社は、現在も愛知県一宮市の中心部にある神社で、一宮という地名も当社に由来する。当社は鳥羽法皇創建の安楽寿院領で、法皇の姉妹八条院暲子(しょうし)内親王を本家とする八条院領の一つとなった。預所(あずかりしょ)は白河法皇の寵姫祗園女御(ぎおんのにょうご)に始まり、平家に伝えられた(18号<12>)。寿永2年(1183)7月、平家は都落ちするが、平頼盛(池大納言)夫妻は同行せず、9月に八条院庁下文(くだしぶみ)(51号<1>)によって頼盛夫人の大納言局(だいなごんのつぼね)が当荘の預所職に補任された。そして前述のように翌年4月源頼朝が頼盛の家領を安堵するにあたり、真清田社は八条院御領の一つとして安堵された(18号<2>)。 当社は大納言局の子息光盛からその嫡女安嘉門院宣旨局(せんじのつぼね)へ、宣旨局からその姉妹の久我通忠後室に譲られ(18号<4>・<12>・<16>)、さらに通忠後室からその娘小坂禅尼に譲られた(19号)。そののち当社は久我家領となり、後醍醐天皇の綸旨をもって、おなじ尾張国の海東上・中両荘とともに久我家雑掌に引き渡すように尾張守某に命じられている(8号<3>)。それゆえ前述の久我長通譲状にも当社は家領として記載されている。 嘉禎元年(1235)の真清田社検田目録(52号)は後闕の断簡であるが、社領は愛智・海東・海西等の数郡に分布し、水田のみでも129町9段余、そのうち川成・不作を除いた定田96町余というかなり広大な面積であったことがわかる。南北朝期には、社領の今寄荘内の田畠をめぐって神官と地頭安威(あい)性遵とが争い、貞和2年(1346)久我長通の申し入れと幕府の裁定により、地頭性遵が契約通りの年貢を毎年納めることで和与に達した(51号<2>)。これは当社領内における地頭の勢力拡大を示す最初の史料である。 永享6年(1434)にいたり将軍義教はその不興をかった久我清通から当社と伊勢国石榑(いしぐれ)御厨を没収して伊勢国人長野教高に与えたが、将軍義政は文安5年(1448)軍功により拝領という教高の主張を退けて下地の久我家への引渡しを守護斯波義敏に命じ(53号<2>)、康正元年(1455)にも再び教高の排除、ついで守護使不入を命じた(53号<1>・<3>)。しかしそれでも久我家への返還は実現しなかったので、寛正5年(1464)、久我家は幕府に返還の実施を訴えた結果(54号)、義政は真清田社と石榑御厨を久我通尚に返付し、久我家が代官を補任し、これまで代官であった工藤某には幕府から替地を与えることと決定した(55号<1>)。 そこで久我通尚は懸案の解決に貢献した家司の竹内為治に真清田荘の収益の8分の1を与え、かつ石榑御厨の預所に補任したが(56号)、尾張守護斯波義廉(よしかど)は田上蔵人という者を当社の代官に補任するよう要求して早速久我家の直務支配を妨げた(57号)。 応仁の乱の最中の文明3年(1471)5月、久我家はあらためて幕府から石榑荘(御厨)と当社の当知行安堵を受け(55号<2>)、北伊勢の国人神戸(かんべ)秀国を当社の代官職に補任し(58号)、年貢・公事・地子銭など合わせて毎年243貫余の納入を記した目録を注進させた(59号)。これは戦乱に乗じて社領を長野氏が侵略するのに対抗しようとした措置であろう。しかし久我家の努力も空しく、この目録を最後として尾張一宮真清田社に関する史料は跡を絶ち、自立性を強めた在地国人の押領により久我家の当社支配は終わりを告げてしまう。ただしこれは真清田社だけでなく、多少の遅速はあれ河内国大和田荘・伊勢国石榑御厨・尾張国海東上中荘・近江国田根荘などに共通する現象であった。 b 伊勢国木造荘 木造(こづくり)荘はやはり源頼朝から平頼盛に返付された池大納言家領の一つであり(18号<1>)、三重県中部の雲出(くもづ)川北岸に存在した荘園で、今も久居市木造町に名を残している。もともと伊勢平氏の開拓した荘園で、本家は白河法皇の皇女郁芳門院(いくほうもんいん)の菩提をとむらって創建された六条院であった。真清田社と同様、平光盛から安嘉門院宣旨局を経て久我通忠後室に譲られたが、通忠後室は当荘を河内国大和田荘・尾張国海東上・中荘とともに通忠の嫡子通基に譲り(18号<17>)、通基の嫡子通雄へ伝領された。ところが前述のように通雄は嫡子長通を勘当して池大納言家領の5荘を次男通定に譲ったので、長通は後醍醐天皇に訴えて正当性を保障する綸旨を申し受け、ついで鎌倉幕府から当荘を含む5荘の安堵と通定の代官の排除が命じられた(21号・22号)。それゆえかの久我長通の譲状にも当荘が記載されている。 観応2年・正平6年(1351)10月、足利尊氏が弟直義を討つため南朝に帰順を申し入れ、いわゆる正平一統が実現するが、この交渉中に久我家はいち早く南朝に当荘領家職の安堵を申請し、一統直前に後村上天皇の当荘安堵の意向が天皇の重臣四条隆資(たかすけ)に伝えられ(61号<4>)、隆資から久我家に伝達された(60号)。しかし正平一統はまもなく崩壊し、この安堵も実効をみず、その後も当荘は永年にわたって不知行化していた。南北朝合一の前年の明徳2年(1391)にいたり、将軍義満は久我家の申請に任せて木造荘領家職の押領人を退け下地を久我家の雑掌に渡付するようにと、伊勢守護仁木満長に命じたが(61号<1>)、当荘付近一帯はなお南朝の重鎮であった伊勢国司北畠家の勢力圏に属していたため、この渡付は実現しなかった。 応永21年(1414)9月、将軍義持が久我通宣に当荘を一円に安堵すると(9号<7>)、木造荘を本拠として木造家とも称していた北畠俊泰は、翌10月ついに「上意黙止し難きに依り」として当荘の河北分を久我家に渡進することを約束し(9号<22>)、北畠嫡家の伊勢国司満雅(みつまさ)にいたっては当荘の「一円渡進」を約束したのである(9号<24>)。これは幕府権力増大の結果ではあるが、同年12月、「国司一族」の千種(ちぐさ)顕親は、当荘を一円に預かり年貢を「毎年万疋(百貫文)」支払うという請文を提出して請所(うけしょ)代官となり(62号)、久我家の直務支配は実現しなかった。もっとも北畠一族千種氏との請所契約は、木造氏に対抗するために必要であったかもしれない。 翌年北畠満雅の反乱が勃発し、やがて一旦満雅は降伏するが、伊勢の国内情勢はすこぶる不安定となり、千種氏の請所契約も履行されなかったとみえて、応永30年(1423)には近隣の国人乙部(おとべ)伊豆守の雑掌が、当荘河北分を毎年20貫文で請負った(刊164号)。正長元年(1428)再度挙兵した満雅の討死により乱が終結し、やがて幕府が満雅の子で幼少の教具(のりとも)に家督相続を許すと、永享3年(1431)国司代として実務を執ったその叔父北畠顕雅は、久我家からの要請に応えて、当荘年貢の進納を厳密に申し付ける旨を回答した(61号<2>)。これは請所代官が未納を続けていたために違いない。 その後当荘の所見は乏しくなるが、文明17年(1485)にいたり、伊勢国司北畠具方(ともかた)を補佐していた同政勝は、久我家当主豊通が伊勢国に下向される由なので、当荘年貢毎年二千疋(20貫文)をことに厳重に申し付けるという旨の書状を久我家に送っており(63号)、当荘の年貢は本来の契約額の5分の1に減額しながら、一応まがりなりにも納入された模様である。 戦国末の永禄10年(1567)、久我家当主通俊(のち通堅)は、当荘代官の森岡弥六(頼久か)を数年間年貢未進のため罷免して久我家の直務にしたいと前伊勢国司北畠具教に申し入れたので、具教は一族の岩内鎮慶にしかるべき処置を依頼した(64号)。次いで具教は森岡の主人山崎国通の嘆願を容れて、未納分を森岡に支払わせることとし(刊648号<1>・<2>)、森岡は代官職罷免を猶予されたことを謝すとともに未進分の完済を誓い(65号)、具教も代官に厳重に申付けた旨を久我通俊に申し送った(66号)。かつ岩内鎮慶も久我家に宛てて代官の無沙汰を堅く戒めたことなどを告げるとともに、一族北畠国茂(くにもち)・具俊父子の官位をさっそく調えられたことを謝し、さらに国茂は来年中将に昇進するよう願いたいとしている(67号)。北畠家は久我家と一門のよしみにより、当荘の年貢納入の約束とひきかえに一族の官位の推挙を受けるという“ギヴアンドテイク”の関係にあり、戦国末まで当荘が久我家領としての形を維持しえたのはこのためであった。 元亀4年(1573)森岡頼久は、当荘公用十貫文分を米で進納することを契約しており、納入額はさらに半減して、最初の十分の一となっている(68号)。ついで天正3年(1575)織田信長の子息信雄が強引に伊勢国司北畠家を継いで入国すると、久我家は当荘をまったく喪失したのである(刊703号、久我家領不知行分注文案)。 c 播磨国這田荘 這田(ほうた)荘は古代の播磨国多可郡蔓田(はふた)郷に成立した荘園で、兵庫県西脇市芳田(ほうた)にその名を残す。この荘園も池大納言家領の一つで、本家は鳥羽法皇の創建した得長寿院(とくちょうじゅいん)であった。平頼盛から子息光盛に譲られたが、承久の乱直後の承久3年(1221)8月、鎌倉幕府は播磨国這田・石作(いしつくり)の両荘を守護使不入とし、兵粮米は領家(光盛)から幕府に納めることとし(69号)、これを受けて六波羅探題は両荘から守護使(守護安保実員(あぶさねかず)の使者)を退去させ(9号<16>・70号)、さらに当荘における守護所の濫妨(らんぼう)を停止している(刊8号)。 当荘は前述のように平光盛から4女三条局に譲られ、さらにその姪小坂禅尼に譲られたが、元弘3年(1333)6月、久我長通は後醍醐天皇綸旨により当荘の安堵を受けた(刊42号)。暦応元年(1338)長通は当荘地頭職も足利尊氏から安堵され(9号<2>)、貞和4年(1348)佐藤幸清・梶原景貞の両使に現地の久我家への打渡しが命じられたが(9号<19>等)、前地頭とみられる石塔(いしどう)頼房の代官が城郭を構えて抵抗したため打渡しができず(刊71号・72号)、翌5年幕府は石塔に替地を与え(刊75号)、ようやく渡付を実施した(9号<20>等)。ところが翌観応元年(1350)当荘東条郷公文(くもん)の堯観法師らが城郭を構えて狼藉を行なったため、幕府は播磨守護赤松範資に彼らの駆逐を命じ(9号<21>)、範資は使者を派遣して合戦の末、城郭を破却堯観以下を駆逐した(刊79号)。 このように足利一門の石塔氏や在地武士の実力行使により、当荘は容易に久我家の支配が及ばなかった。その上、この年の末には播磨国内は観応擾乱の主戦場となり、武士の当荘侵害は一層甚だしくなった。翌々観応3年(改元して文和元年)、在鎌倉の尊氏は久我家の要望に応えて二度にわたり在京の嫡子義詮に当荘の処置を指令したが(9号<3>・<4>・<5>)、効果は上がらなかった。それというのも永和3年(1377)播磨守護赤松義則が久我家に提出した請文に「播磨国這田荘の事、亡父則祐御下文を拝領し、当知行年を経候と雖も」とあるように(71号)、観応2年4月に就任した当国守護の赤松則祐(そくゆう)が拝領と称して当荘を守護領に編入したためと思われる。義則はこの請文に、特別に当荘内の黒田郷200石の下地を久我家に切り進めると述べて、恩着せがましい態度で当荘の一部の割譲を約束したが、久我家としてはもちろん満足できる成果ではなかった。 嘉吉元年(1441)嘉吉の乱がおこるが、赤松満祐追討軍に加わった赤松貞村は、久我家にたいして這田荘三ケ郷の代官職を請負い、年貢半分の納入を契約した(72号)。しかし播磨守護職は山名宗全が満祐討減の功により拝領したので、赤松貞村の契約は実現せず、宗全は黒田郷内の久我家領を安堵したに過ぎず(刊196号)、沙弥宗端なるものが黒田郷の「本所直務分」を70貫文で請負い、直務というのも名ばかりであった(刊198号)。また津万(つま)郷については在地国人の津万満京というものが加増分毎年5貫文を納めるという請文を久我家に提出した(刊221号)。 応仁の乱の勃発とともに幕府は播磨守護職を敵軍の主将山名宗全から奪って赤松政則を補任した。政則は久我通尚の要望に応えて久我家領を疎略に扱わない旨を返書し(73号)、一族・重臣に久我通尚が播磨に在国するので扶持するようにと通達するとともに、久我家領同国石作荘に山林竹木伐採の禁制を発し、守護代浦上則宗は石作荘内の諸役免除地にたいする催促を止め、かつ名主医師大弐の本年貢以下無沙汰等を戒めた(刊253号<1>~<7>)。これは主に石作荘の事例であるが、這田荘についても、文明6年(1474)政則の一族赤松則盛は黒田郷の年貢50石と人夫60人を請負い、乱がおさまったら加増すると約束している(74号)。久我家当主の大乱を避けての播磨滞在と赤松一族のこれに応じた丁重な処置は、赤松氏が久我家の庶流であるという伝承によって自家の権威付けをおこない、久我家もこれを意識的に利用したためにほかならない。 明応5年(1496)赤松政則が没して養嗣子義村が守護となると、翌6年、義村の奉行人等は津万郷内の久我家領を兵粮料所から除外して年貢・公事物を直務として進済するようにと同郷の名主沙汰人中に通達し(刊343号)、永正16年(1519)7月には同じく津万郷内の久我家領を諸役免除とし直務を認めると久我通言の雑掌に告げているように(75号)、義村も依然として久我家に好意的であった。そして同年8月、将軍の直臣らしい長井職治は這田荘御本所分を京着50貫文に請負い(刊463号)、同年10月には津万郷番頭衆が本所分の夫銭・公事銭四貫文と現夫17日の納入を請負っている(刊466号)。 黒田郷の方は、文亀3年(1503)に赤松祐忠が同郷本所分を京着20貫文に請負って以後は所見がないが(刊375号)、津万郷については永禄7年(1564)、赤松氏庶流の別所安治が同郷代官職を20貫文に請け負っており(76号)、赤松氏嫡流の衰退した戦国末期にも、一門意識をもつ別所氏によって多少なりとも久我家に年貢が送られていた。播磨国内ではほかに石作荘と伊和西位田(いわにしいでん)が請所として保たれていたが、天正13年(1585)5月、久我家雑掌長家が京都所司代の前田玄以に提出した久我家領不知行所注文案(刊703号)によると、播磨国内では「秀吉様御入国以来不知行候」として津万郷20貫文・伊和之西10貫文(「是ハ御入国以前より不知行」)・石作荘50貫文が記されている。天正6年(1578)羽柴秀吉が播磨に入国し同8年別所長治を討ち滅ぼすにいたって、播磨国内の久我家領は名実ともに消滅するのである。 6 関所・商業座等からの収益 室町時代の公家や寺社が、関銭徴収の権益や商工業の座の本所(ほんじょ)としての収益を特権として朝廷および幕府から賦与され、これらを荘園からの年貢・公事等の減少による財政の困難をいくぶんでも補うために運用したことはよく知られている。久我家ではまず内蔵寮(くらりょう)に属した御服所率分関(ごふくしょりつぶんのせき)と立売課役(たちうりかやく)のうちの特定商品にたいする課税が知行の対象となった。率分(りつぶん)(のち「そつぶん」ともいう)とは平安時代に租税の未納・欠失などを一定の割合で諸国に補填させる制度を指したが、鎌倉時代以降この制度の衰退に代わって、京都の出入口や畿内・近国に関所を設けて率分関(りつぶんのせき)と称し、内蔵寮以下の寮・司・所などの官衙に分属させて関銭(せきせん)をそれらの官衙の収益とした。さらに率分関の収益の大半はそれらの官衙の長官を世襲する家をはじめ特定の貴族の収益となった。また立売課役とは、座売・店売(たなうり)にたいして、店舗を設けず立って販売する商品への課税をいう。京都では二条以北に上立売・中立売・下立売(本立売(もとたちうり))の三つの市場がおこり、行商人が集まって営業していたが、後にここにも店舗が発達する。 久我家文書におけるこれらの特権賦与ないし安堵の文書は、綸旨3通と室町幕府奉行人連署奉書6通が「禁裏御服所関立売文書」と題し、巻子仕立てとして収録されており(77号<1>~<9>)と、そのほかにも幕府奉行人連署奉書3通が存在する。 このうち綸旨の初見は、御服所率分関と立売課役の櫛・皮籠(かわご)・簇(やじり)・磨鉢(すりばち)にたいする課税を久我豊通に安堵する明応5年(1496)八月の後土御門天皇綸旨である(77号<1>)。その後永正6年(1509)6月の後柏原天皇綸旨(77号<2>)が久我通言に、大永8年(1528)2月の後奈良天皇綸旨(77号<3>)が久我邦通に宛ててそれぞれ発行されている。文言は多少異なるが、ともに「御服所率分」とあり、課税品目も後士御門天皇綸旨とほぼ同じである。13年、ついで19年の間隔でこれらの綸旨が発行されたのは、この間に皇室と久我家がともに2回代替りしたとはいえ、久我家の権益が実効力薄弱で、皇室に再確認を要請したためであろう。 こうした事情をより明らかに示すのは、主にこの77号に収録されている室町幕府奉行人連署奉書である。これは6回にわたり計9通発令されるが、その初見は小袖屋(小袖は本来大袖の表着の下に用いたが、やがて表着となり、今日の着物のもとになった)・小破(こわり)(小割)座(小割(こわり)は引き割った木材)の本立売等課役を、当知行に任せて久我家に安堵した文明7年(1475)12月の室町幕府奉行人連署奉書である(77号<4>)。これは右の綸旨の初見より19年遡り、かつ綸旨には見られない小袖屋と小破座に対する課役の安堵であるから、当時これらの商人に対する支配権は朝廷ではなく室町幕府に属したと推定される。第2は、後土御門天皇綸旨の翌年の明応6年(1497)6月20日付2通の奉書で、1通は前年の綸旨を承けた関務の安堵、いま1通は綸旨と将軍の下知を承けた、櫛以下4品目と小袖屋・小破座の本立売課役の安堵で、2通あいまって久我家の関・座等に対する権益を構成する(77号<5>・<6>)。 第3は永正14年(1517)8月の奉書で、皮籠公事銭の無沙汰を取り締まるため、座頭2人を置いたもの(77号<8>)、第4は享禄2年(1529)9月の率分立売・小割座の関を久我家に安堵し、かつこれを「当座商人等中」に告げて励行を促した2通の奉書(刊510号・512号)、第5は天文2年(1533)11月の奉書2通で、1通は率分関七口(ななくち)での櫛以下4品と立売課役を久我家に安堵したもの(刊523号)、いま1通はこの安堵を「諸口商人」に告げて納入を命じたものである(77号<9>)。第6は天文15年(1546)9月の奉書で、上記の関と立売課役を不法に競望するものを退けて久我家に関務を安堵したものである(77号<7>)。この第3から第6までをみると、久我家への課役納入は滞りがちであり、久我家は繰り返し幕府に訴えて奉書の発行を受けているのである。 しかしこれらの綸旨や奉書の発行された15世紀末から16世紀前半にかけての洛中洛外には戦乱があいつぎ、綸旨も幕府の奉書も守られる情勢でなかった。現に天文15年9月には細川晴元方と細川氏綱方が洛外嵯峨や摂津・丹波などで戦い、翌月には京都に土一揆が蜂起し幕府が徳政令を出している。そしてこれ以後は安堵の綸旨も幕府奉行人奉書もまったく見られなくなり、久我家の諸関・諸座からの収益は自然消滅したのである。 なお久我家文書には座衆・町屋等に関する文書として天文16年(1547)閏7月の大舎人(おおとねり)本座衆の申状の案文(78号)や、某年2月の細川被官加地宗三(為利か)の折紙の書状2通(79号・80号)などがある。大舎人はもと宮中の警衛にあたる下級官人で、副収入として織物業をいとなみ、やがて座を結成した人々であった。この申状は、座外の同業者の進出に対抗するため、足利義晴夫人(近衛尚通の娘)の被官を希望して輿副えの供と年2季の礼銭を申し出て、夫人の実の兄弟である久我晴通(尚通の実子で久我通言の養子)に仲介を依頼したものである。 細川被官の加地丹後入道宗三の書状2通のうち、1通は三条町の代官を本所久我家から仰せ付かっているので屋地子(やじし)(宅地の地代)を自分に納めよと三条町の住人に告げたものであり(79号)、これより先の某年7月同じ細川被官の塩田若狭守胤貞が、洛中三条町の屋地子等は久我家から加地丹後守に補任されたので同人に納めるようにという書状を、当所名主百姓中に出している(刊546号)。いま1通は洛中洛外の局公事(つぼねくじ)の代官を本所久我家から仰せ付かっているから公事を自分に納めよと遊女屋の亭主中に告げたものである(80号)。この2通の加地宗3書状により、それらの収益が久我家に属していたことがわかるとともに、それらが細川被官に事実上押領されるようになった有様が推察される。なお『細川両家記』に享禄5年(1532)6月泉州堺の顕本寺で三好元長とともに切腹した人々として「同名(三好)山城守、塩田若狭守(胤貞)、同息2人、加地丹波(マヽ)守父子、此外諸侍廿余人」と記しており、加地丹波守は丹後守の誤写で、加地宗三その人に違いない。したがって宗三の2通の書状は、享禄5年以前と推定できる。 7 当道座との関係 当道座とは本来盲目琵琶法師の組織であり、久我家文書におけるその初見は、天文3年(1534)11月の後奈良天皇綸旨である(81号)。この綸旨は当道盲目法師座中を「後白河院御宇以来管領云々」として久我家に安堵したものであるが、この綸旨の発行されるにいたった事情は、天文9年(1540)当道座の検校(けんぎょう)宮城倫一が三休という者に筆録させた『座中天文記』に詳しい。これによると検校松村福一は大永元年(1521)不正が発覚して座法により不座(除名)となったが、翌年久我家は座中に福一の帰座と惣検校の代わり目の礼銭を要求した。座中は前例がないとして拒否したが、久我家は種々運動して天文3年に、この綸旨を申し受けたとある。久我家は福一の事件を利用して当道座を支配下に置こうとしたものとみえる。 そこで座中は久我家を支持する150余名の新座とこれに反対する270余名の本座とに分裂して争ったので、久我家は幕府に運動して、翌天文4年(1535)11月に申し受けたのが、「本所」久我家による制裁権まで承認した幕府奉行人連署奉書である(83号)。本座方はこれに反発して幕府に訴えたので、幕府の実権を握る細川晴元は糺明に乗り出した。新座方は法華一揆とも結んで対抗したが、翌天文5年7月の天文法華の乱で法華一揆が叡山の衆徒に襲われて壊滅したため、新座方は本座方に和睦を申し入れ、本座の主張通り、久我家には毎年巻数(かんず)(経文の題名・度数などを記して願主に送る文書)を捧げるのみ、福一は生涯座中出仕を止めるなどの条件で和睦が成立し、久我家の画策は失敗に帰した。 以上が『座中天文記』に記す事件の顛末であるが、天文15年(1546)九月細川晴元が遊佐長教らに京都を追われると、久我家はまたも幕府に運動して同年11月、再び奉行人連署奉書を申し受けた(84号)。これには本所久我家の命を拒否する輩は成敗すべしという、一段と強い調子の文言が記されている。しかし翌年7月晴元は京都を回復するので、この奉書がどれだけ効力をもったかはすこぶる疑問である。 江戸幕府は当道座を公認して統制し、座中は箏・三味線・鍼灸・按摩等を業とする盲人をも傘下に入れて組織を拡大し、その上層部は官銭(検校以下の「官」を買う代金)の配分などで富裕になった。一方当時の久我家は家領が激減し財政が逼迫したので、次項に触れるように明暦3年(1657)久我広通は幕府に家領回復の運動を開始するが、その前年末から当道座に対する「管領」権を強調して「官途(かんと)并年中之礼等」を要求した(85号等)。久我家の要求は従来の惣検校代替りと毎年の巻数の礼物(礼銀)のほか、新たに検校成・勾当成(こうとうなり)等の礼物および毎年検校以下の座衆からの年頭の礼物の納入であった。座中がこれを拒否すると久我家は幕府に訴えた。なお二条天皇綸旨なるもの(82号)は、前述の座中天文事件の際にはこれに触れたものがなく、この江戸初期の一件に久我家側が引用しているので、この間の偽作であろう。 係争は10年間におよんだが、久我家も礼物(礼銀)の種類や額について譲歩したので、寛文6年(1666)末幕府が仲介してようやく和議に達し、これを不満とした検校4人は幕府に出訴して翌7年初め閉門となった(刊1846号)。ここに当道座中は久我家の「座中管領」を認め、礼物納入等を約束した請書(うけしょ)を久我家に提出し(86号)、係争は久我家のほぼ全面的な勝訴に終わった。これは久我広通の精力的な幕府首脳部への働き掛けにもよるが、幕府が久我家の財政難と座中上層部の富裕を承知していたためでもあった。なお検校の座次や門派を記した「検校座中次第」もしばしば久我家に提出された(87号等)。こうして久我家の当道座管領は明治維新まで継続したが、明治4年(1871)11月久我建通より京都府へ、これまで通り座中を管領してよいかとの伺書を提出したのに対し、盲人の官職は自今廃止との京都府達が出され(刊2016号)、当道座の廃止と同時に久我家の座中管領もここに終わりを告げた。 8 近世の久我家領への移行 永禄11年(1568)9月織田信長が足利義昭を擁して入京すると、前述のように久我晴通は翌月いちはやく信長から京都近郊の家領を安堵する朱印状(刊765号<1>)を受けたが、さらにその嫡孫久我季通(のち敦通)は天正3年(1575)7月「五ケ村之外入組・散在等」を安堵する朱印状(88号)、同5年11月「本知分」を還付する朱印状を受けた(刊765号<2>)。 本能寺の変ののち畿内・近国を制圧した羽柴秀吉は、天正13年(1585)京都所司代前田玄以を通じて久我家に家領の指出(さしだし)を指令し、同年5月久我家の雑掌(家司(けいし)のこと)長家は家領の指出帳を提出するとともに、隠匿地などのないことを誓った(89号・90号)。この指出帳は従来の町・段・歩、1段360歩の単位で作成されている。 秀吉は同年11月、季通に判物(はんもつ)を与え、「当所上・下荘千二百参拾石」を安堵した(91号)。この判物にもとづき翌12月に作成されたのが、久我上下荘給人方割帳(きゅうにんかたわりちょう)(92号)・上久我荘蔵入帳(くらいりちょう)(93号)・下久我荘蔵入帳(94号)であり、久我家に仕える人々の知行分が488石余、それを差し引いた741石余が久我家の蔵入分であることがわかる。かつ注目されるのは、これらの帳が町・段・畝・歩、1段300歩の新たな単位で記載されていることである。このことは同年5月の指出から11月の判物交付までの間に、上・下久我荘内に太閤検地が実施されたことを推定させる。こうして久我家領は豊臣政権下に上・下久我荘のみに限定されることとなり、かつ従来の代官請(うけ)や名主職(みょうしゅしき)・作職などの煩雑な荘園制的機構が廃止されて、いわゆる一地一作人制に基づく近世的な村落支配機構に移ったのである。 豊臣秀吉は天正16年(1588)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して近江国高島郡海津西荘浜分内105石を久我敦通に加増し(95号)、さらに同19年(1591)9月、山城国吉祥院内4石4斗5升を京中屋地の替地として与えた(96号)。このほか丹波国船井郡広瀬村内16石が与えられており(刊724号、765号<6>)、豊臣政権下での久我家の知行高は合計1355石4斗5升であった。 関ケ原合戦後の慶長5年(1600)11月に久我家が伝奏勧修寺(かじゅうじ)光豊に提出した当知行分目録は、以上の久我上下荘・山城国吉祥院内・近江国海津西荘浜分・丹波国広瀬村内計1355石4斗5升であり(97号)、これは徳川新政権の安堵を期待したものとみられる。ところが久我敦通は前年6月に勅勘を蒙ったため、徳川家康からも知行安堵を得られず、やがて嫡子通前の方領(かたりよう)(家督相続以前に出仕した公家の子弟に与えられる俸禄)として山城国愛宕郡福枝村内と乙訓郡上久世村内でわずか200石を与えられたに過ぎなかったので、通前の嫡子広通は明暦3年(1657)9月京都所司代に無足(むそく)(知行地のないこと、または収入のないこと)同然の窮状を訴え(刊1833号)、さらに寛文4年(1664)まで繰り返し幕府首脳部に本領安堵を申請し(刊793号、家領訴訟一件往復書状)、かつ本領であった上・下久我村の高はもと1230石で、現在は1356石9斗余であると述べて、家領回復を訴えた(98号)。 この久我広通の運動が一応奏効して、広通は山城国綴喜(つづき)郡薪村内500石を加増され、結局寛文5年(1666)11月、将軍徳川家綱は広通に旧領山城国愛宕郡福枝・幡枝両村と乙訓郡上久世村内計200石のほか新加として河内国志紀郡弓削村500石、合計700石の知行を安堵した(99号)。さらに貞享2年(1685)6月、将軍綱吉は久我通誠に山城国乙訓郡久我村内200石・河内国志紀郡弓削村内500石、計700石を安堵し(100号)、久我家は福枝村等に替えて念願の久我村内に知行を認められることとなった。こののち歴代将軍はこの綱吉の安堵を踏襲し、それは明治維新政府による知行制廃止・家禄奉還まで継続したのである。 おわりに 以上で今回展観に供した久我家文書を中心とする久我家およびその家領についての概観を終えるが、これらの文書に特徴的なことのひとつは、中世貴族久我家の門地の高さを反映している文書の多い事実である。後伏見上皇宸筆伏見上皇御消息案や、「久我家重書」に収める多数の綸旨・関東御教書・室町将軍家御判御教書等の伝来は、おのづから清華家としての久我家の地歩を示すものである。また北畠親房自筆書状・久我豊通書状草案以下、久我家の村上源氏中院流の嫡家としての地位や源氏長者としての職権をあらわす文書も少なくない。一方文芸史料としては、伏見天皇宸筆御和歌集断簡、すなわちいわゆる広沢切(ひろさわぎれ)がもっとも注目されるものであり、ほかに里村紹巴(じょうは)等の連歌師への久我家の庇護のわかる書状類などもある。 しかし中世の久我家文書の大部分は家領関係の文書である。これらについて縷述したことを以下に要約しよう。 平安末期の71ヶ所に上る中院流(なかのいんりゆう)家領の目録草案が久我家に伝わるが、分割相続等の結果、嫡流の久我家も京都西南郊の久我領諸荘のほかは中院流家領のごく一部を伝領したに過ぎなかった。さらに「久我家根本家領相伝文書案」によれば、これらの諸荘も決して安泰でなく、京都近郊家領以外の3荘は西園寺家に伝領された。また「池大納言家領相伝文書案」により、平頼盛領の一部が姻戚関係を通じて久我家領となった経過を辿れるが、鎌倉末期にその大部分が久我通雄から末子通定に譲られた。通雄の長子長通はそれらの流出した家領の回復に尽力し、その成果は南北朝初期の久我長通譲状に集約されている。 そののち、上下久我荘以下の京都近郊の家領はおおむね久我家の直務(じきむ)荘園として保たれるが、そのためには久我家の家司や侍衆を代官・当名主などとして再編成し、共同管理させる方策が計られた。ただし近郊家領のなかでも東久世(築山)荘は、畠山被官・細川被官・将軍直臣小笠原氏などの押妨(おうぼう)を受け、管理体制の再編どころでなかった。 一方地方の家領のうち畿内・近国の荘園の多くは室町期までの文書を残すが、尾張一宮真清田(ますみだ)社・同社領のような由緒ある家領も伊勢の有力国人長野氏やその被官の侵略を蒙り、再三再四の将軍家御教書による制止も効果なく、応仁の乱中を最後に久我家領としての証跡が絶えてしまう。他にも同様な家領荘園が多かった。 そのなかで戦国末期まで存続した地方の家領は、伊勢国木造(こづくり)荘と播磨国の這田(ほうた)・石作(いしつくり)等の諸荘である。木造荘は室町期に入ってようやく北畠家およびその一族木造家から久我家へ渡進されて請所(うけしょ)荘園となるが、契約年貢額は激減し、しかも未進を重ねた。しかし戦国末期にも、北畠具教は北畠一族の官位推挙と引き替えに年貢納入を約束している。また這田荘は在地国人、さらに守護赤松氏の押領を受け、やがて赤松氏を代官とする請所荘園となり、年貢契約額は漸減するが、戦国末にも赤松氏庶流の別所氏が荘内津万(つま)郷を請負っている。これらの伊勢・播磨両国内の久我家領を名目的にせよ戦国末まで存続させた要因は、北畠一族・赤松一族が久我家一門の村上源氏という同族意識を有したことにあった。 室町後期には「禁裏御服所関立売文書」の綸旨3通および室町幕府奉行人連署奉書6通などにみるように、京都七口の率分(そつぶん)関(りつぶんのせき)および立売の櫛以下4品への課役、小袖屋・小破(こわり)座の本所としての課役などが久我家の収益となる。しかしこれらの課役の徴収は容易でなく、戦国期の間にこの種の収益は消滅する。 戦国期に出現するのは盲目法師の当道座に関する文書である。久我家は検校松村福一の不正事件を機会に当道座にたいする支配権強化を図り、「後白河院御宇以来管領」という綸旨を申し受けると、座中には分裂抗争が起こる。久我家はさらに室町幕府奉行人連署奉書も受けるが、まもなく座中の両派は和睦し、久我家の計画は不成功に終わった。なお江戸初期にいたり、久我広通は江戸幕府に運動して再び当道座の「管領」を主張し、10年に及ぶ相論の末、検校成・勾当成(こうとうなり)・年頭等の礼銀徴収に成功した。 織田信長の入京後、久我家は近郊の家領を信長の朱印状で安堵されるが、やがて豊臣秀吉は太閤検地の結果新方式による安堵の判物を与え、結局久我家は上下久我荘のほか山城・近江・丹波に散在する家領を合わせて1355石余の知行を許された。しかし久我敦通が後陽成天皇の勅勘を蒙ったため、久我家は江戸幕府の安堵を得られず、わずかに方領(かたりょう)200石を許された。久我広通は家領加増を陳情し、将軍家綱から山城・河内両国に計700石を安堵され、次の将軍綱吉以来山城の200石は久我村内で与えられて、近世の久我家領が確定した。 久我家文書には中世貴族としての久我家の地歩を反映する文書も少なくないが、多数の中世文書は、他の貴族の手に移った家領の回復に勉め、さらに守護や在地国人の押領に対処して苦心を重ねた貴族久我家の実情を物語るものであったといえる。 |
所有者(所蔵者) | 國學院大學図書館 |
コンテンツ権利区分 | CC BY-SA-ND |
資料ID | 144213 |
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