【解説】伊勢太神宮禰宜謹解、申儀式并年中祭行事事 

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分野分類 CB歴史学
文化財分類 CB図書
資料形式 CBテキストデータベース
+解説伊勢太神宮祢冝謹解申儀式并年中祭行事事 [貴-1301]

〈外題〉ナシ
〈内題〉伊勢太神宮祢冝謹解申儀式并年中祭行事事
〈巻冊〉1冊
〈体裁〉紙縒綴
〈書写年代〉文政2年(1819)
〈寸法〉表紙 縦23.4糎×横17.1糎
〈奥書〉本云
文和三年〈甲午〉四月十九日於伊勢国度會郡継橋郷河原/村吹上書寫畢為令神事興行申出村松長官〈家行神主〉御本/励老眼畢 圖書助通俊
○(俗イ)名權祢宜度會神主實相(イ无)
此書者予命田中弘高而令写之重而予加校合并朱傍/而已
文暦五年三月朔日 光隆
文政二年己卯冬十一月□日外宮御師幸田/太夫之本以書寫畢
藤井清々翁
成章 花押
〈解題〉

一般に『延暦儀式帳』『皇太神宮儀式帳』などと称され、『止由気宮儀式帳』と共に延暦二十三年(804)に神祇官に提出された解文の写本である。古代伊勢神宮の諸祭儀を詳細に記したものであり、これだけまとまった形で古代の神社における祭儀の実態が記された史料は他にない。奈良時代後期から平安時代初期における格式編纂以前の伊勢神宮の実態を理解することができる貴重な史料である。

『皇太神宮儀式帳』の写本は多くが近世のものであり、古い伝本としては鎌倉時代の書写と考えられる薗田家旧蔵本(神宮文庫蔵)が存在するが、欠損が多い。流布本は外宮一禰宜を務めた村松家行の所蔵本を、文和三年(1354)に権禰宜度会実相が書写した旨の奥書を有する写本であり、本写本もその系統に属する。奥書によると、文暦(宝暦カ)五年に幸田光隆が書写させ、自らが校合し朱で傍書したものを、藤井成章が文政二年(1819)に書写したという。

幸田(度会)光隆は享保十年(1725)に伊勢の宮後で生まれ、幼時より和漢の学を修め、詩文に長じ、神典に通じ、外宮大内人、宮崎文庫講師を務め、寛政十一年(1799)に死去している。光隆には『神風撥霧集』『談助篇』『中臣祓辭古訓評』などの著作があり、『二宮叢典』の編纂にも関わってその序文の執筆を任されている。 藤井成章は加東郡東実村(現兵庫県加東市東実)佐保大明神(佐保神社)神職であった。藤井成章は神道関係の書を中心とする多くの書籍を筆写しており、そのうちの1つが本写本である。

本写本は「檜垣本」「久志本本」「古本」「異本」「或本」「イ」等によって字句の異同が傍書や頭注に示されている。檜垣・久志本は外宮の禰宜に補される神宮家(重代家)であり、この両家に伝わった写本を「檜垣本」「久志本本」と称した。光隆による校合は「檜垣本」「久志本本」によって考証されたものがほとんどであり、一部は「古本」をもって行われた。それらは主に朱筆によって傍書され、頭注に「光隆曰」「光隆按」などとして記された。光隆による校合の態度は客観的で実証的なものであり、他本との全ての異同を例として示すのではなく、定証の無いものは記していない。また、「猶正本ヲ竢テ校正スヘシ」と頭注に記された箇所があり、「正本」を披見した後に再度校正しようとしていたことがわかる。

〈参考〉

・阪本広太郎「皇太神宮儀式帳」『新校羣書類従』第一巻 解題 (内外書籍 昭和6年12月)

・西田長男「皇太神宮儀式帳」『群書解題』第一巻上 (続群書類従完成会 昭和37年4月)

・胡麻鶴醇之、西島一郎校注『神道大系』神宮編一 (神道大系編纂会 昭和54年3月)

・『二宮叢典』前篇 (吉川弘文館 平成25年5月)
+登録番号(図書館資料ID)貴1301
資料ID143075
所有者(所蔵者)國學院大學図書館
-143075 37 2020/11/18 r.teshina 【解説】伊勢太神宮禰宜謹解、申儀式并年中祭行事事  【解説】伊勢太神宮禰宜謹解、申儀式并年中祭行事事  貴1301 01 002 伊勢太神宮祢冝謹解申儀式并年中祭行事事 [貴-1301]

〈外題〉ナシ
〈内題〉伊勢太神宮祢冝謹解申儀式并年中祭行事事
〈巻冊〉1冊
〈体裁〉紙縒綴
〈書写年代〉文政2年(1819)
〈寸法〉表紙 縦23.4糎×横17.1糎
〈奥書〉本云
文和三年〈甲午〉四月十九日於伊勢国度會郡継橋郷河原/村吹上書寫畢為令神事興行申出村松長官〈家行神主〉御本/励老眼畢 圖書助通俊
○(俗イ)名權祢宜度會神主實相(イ无)
此書者予命田中弘高而令写之重而予加校合并朱傍/而已
文暦五年三月朔日 光隆
文政二年己卯冬十一月□日外宮御師幸田/太夫之本以書寫畢
藤井清々翁
成章 花押
〈解題〉

一般に『延暦儀式帳』『皇太神宮儀式帳』などと称され、『止由気宮儀式帳』と共に延暦二十三年(804)に神祇官に提出された解文の写本である。古代伊勢神宮の諸祭儀を詳細に記したものであり、これだけまとまった形で古代の神社における祭儀の実態が記された史料は他にない。奈良時代後期から平安時代初期における格式編纂以前の伊勢神宮の実態を理解することができる貴重な史料である。

『皇太神宮儀式帳』の写本は多くが近世のものであり、古い伝本としては鎌倉時代の書写と考えられる薗田家旧蔵本(神宮文庫蔵)が存在するが、欠損が多い。流布本は外宮一禰宜を務めた村松家行の所蔵本を、文和三年(1354)に権禰宜度会実相が書写した旨の奥書を有する写本であり、本写本もその系統に属する。奥書によると、文暦(宝暦カ)五年に幸田光隆が書写させ、自らが校合し朱で傍書したものを、藤井成章が文政二年(1819)に書写したという。

幸田(度会)光隆は享保十年(1725)に伊勢の宮後で生まれ、幼時より和漢の学を修め、詩文に長じ、神典に通じ、外宮大内人、宮崎文庫講師を務め、寛政十一年(1799)に死去している。光隆には『神風撥霧集』『談助篇』『中臣祓辭古訓評』などの著作があり、『二宮叢典』の編纂にも関わってその序文の執筆を任されている。 藤井成章は加東郡東実村(現兵庫県加東市東実)佐保大明神(佐保神社)神職であった。藤井成章は神道関係の書を中心とする多くの書籍を筆写しており、そのうちの1つが本写本である。

本写本は「檜垣本」「久志本本」「古本」「異本」「或本」「イ」等によって字句の異同が傍書や頭注に示されている。檜垣・久志本は外宮の禰宜に補される神宮家(重代家)であり、この両家に伝わった写本を「檜垣本」「久志本本」と称した。光隆による校合は「檜垣本」「久志本本」によって考証されたものがほとんどであり、一部は「古本」をもって行われた。それらは主に朱筆によって傍書され、頭注に「光隆曰」「光隆按」などとして記された。光隆による校合の態度は客観的で実証的なものであり、他本との全ての異同を例として示すのではなく、定証の無いものは記していない。また、「猶正本ヲ竢テ校正スヘシ」と頭注に記された箇所があり、「正本」を披見した後に再度校正しようとしていたことがわかる。

〈参考〉

・阪本広太郎「皇太神宮儀式帳」『新校羣書類従』第一巻 解題 (内外書籍 昭和6年12月)

・西田長男「皇太神宮儀式帳」『群書解題』第一巻上 (続群書類従完成会 昭和37年4月)

・胡麻鶴醇之、西島一郎校注『神道大系』神宮編一 (神道大系編纂会 昭和54年3月)

・『二宮叢典』前篇 (吉川弘文館 平成25年5月) 1

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