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新山一里塚

名称ヨミニイヤマイチリヅカ
地域宇部町
所在地岩手県久慈市宇部町
年代江戸時代
解説江戸幕府は、国内統治のため慶長年間(1596~1614)江戸日本橋を起点として、東海道・東山道・北陸道などを整備した。36町を一里と定め(1町=109m×36町=3924m≒4㎞)、街道には一里塚を築き、木を植樹した。道路網の整備は幕府の安定と江戸の経済の発展に欠かせない政策であり、江戸への物資の交流は重要であった。
盛岡藩主南部重直公は、盛岡城下の駅所鍛治町を起点とし、領内の街道整備に努め、悪路の改修・新設などを行い一里塚を築いた。塚には杉や松などの木が植えられ、根による塚の崩壊防止及び目印とした。盛岡藩では榎が植えられた。
三陸海岸沿いに宮城県から青森県に至る街道は「浜街道」と呼ばれ、正保4年(1647)頃に描かれた南部領惣絵図(盛岡中央公民館蔵)に久慈地域の一里塚が記されている。
久慈市における浜街道のルートは宇部町新山~川原屋敷~平沢~長内~柏崎~荒町~門前~湊町~板橋~侍浜~八戸となっている。このルートの中で、新山(二基一対)と平沢(一対のみ)に一里塚が現存している。平沢一里塚は直径約12m、高さ約3.6mと残存状態が良好で、市指定史跡となっている。
新山一里塚は、西側(久慈市域)が直径約6~9m、高さ1.5m、東側(野田村域)が直径約8~9m、高さ2.9mである。

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