/2
史跡_小久慈焼窯跡
名称ヨミ | シセキ_コクジヤキカマアト |
---|---|
地域 | 小久慈町 |
所在地 | 岩手県久慈市小久慈町 |
年代 | 文化年間創業 |
解説 | 久慈市小久慈町には江戸時代創業の民窯である小久慈焼の窯が今も煙をあげている。開窯を伝える史料としては『八戸藩日記』があり、文化10年(1813)4月29日の条に、相馬から来た嘉蔵が焼物をしたいと申しており、その旨を小久慈村の天田内甚六が藩に願い出たため許可したと記されている。窯場は久慈三日町裏の辰の口とし、陶土の土取場として六箇所の地名も記されている。 相馬は八戸藩の鉄の消費地であり、相馬焼の職人であった嘉蔵が、久慈に良質な陶土がある情報を得て焼物をしに来たのか、甚六が焼物を始めるために嘉蔵を招いたのか詳しい経緯は不明であるが、いずれにしても、当地の豪農であった甚六の財力と嘉蔵の技術により創業された。 翌年の文化11年の『八戸藩勘定所日記』には「相馬焼茶碗弐つ」を藩に献上したと記されており、作陶が成功したことや当初は相馬焼と称されていたことを知ることができる。 大川目町の三日町に築いた最初の窯は2・3年で廃棄され、小久慈町の天田内地区横小路に移り約50年間操業し、その後天田内家の屋敷内に移り、天田内家(後に熊谷と改姓)により代々引き継がれてきた。この頃は久慈焼・天田内焼などと呼ばれ、八戸藩領内外に流通した。熊谷家では分家も焼物を手がけ、本家と分家とで小久慈焼を焼き続けてきた。 藩直営の藩窯に対し、民窯では民衆が日常使用する雑器が作られた窯であり、繊細華麗な美術品や茶器としての焼物とは異なり、素朴で自然な美しさがある。小久慈焼の釉薬は白釉と飴釉の渋味のある素朴なものであり、鉢や片口、茶碗、皿などの日常雑器が生産された。 一般の日常生活の器として陶磁器が普及するのは明治期以降で、それまでは木地ものの類が一般的であった。安価な陶磁器が大量生産され、物流が活発となると全国各地の民窯は中央大手の陶磁器におされ、多くは廃業の運命にさらされた。小久慈焼も危機的状況にあったが、昭和33年(1958)には小久慈焼企業組合が結成され育成体制を整え、熊谷氏の跡を継いだ下嶽毅氏は7代目窯元である。 県内には20箇所以上の窯跡が確認されているが、小久慈焼は江戸時代から途切れることなく継承されている北東北唯一の民窯である。 |