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久慈城跡

名称ヨミクジジョウアト
地域大川目町
所在地岩手県久慈市大川目町第25地割60ほか
指定年月日県・令和4年4月8日
解説 久慈城は別名八日館や新町館とも呼ばれ、海抜約80m、平地からの高さ約40mを測る、独立した丘陵に築かれた山城である。城跡に登ると、久慈川沿いに開けた平野を一望できる守りに有利な地となっており、久慈川の支流である切金川と、人工的な堀川に囲まれている。主郭と呼ばれる最も高い平場から東方向に5段の平場(郭)が連続して築かれており、中世の連郭式の山城の特徴を備えている。郭のほか、堀切や竪堀、馬場跡、井戸跡など、当時のままの状態で良好に保存されている。
 久慈城は、戦国時代、久慈地方を領地とした久慈氏の居城であった。久慈氏は、北東北一帯を広く勢力下においた武家、南部氏の一族である。久慈氏の祖先は、南部氏初代・南部光行の子、朝清とされているが、朝清から治政までの時世については、ほとんど分かっていない。久慈氏の事績について記録に現れるのは、久慈備前守信実からとなる(※久慈氏の始祖や家系については諸説あり、史料により異なる)。
久慈備前守信実が「居を久慈大川目八日館に構え」、「文明年中に久慈を領して久慈氏と称す」などの記録があり、文明年間(1469~87)に信実が久慈城を一族の居城と定めたものと推定される。以後100年以上の間、久慈氏は久慈城を拠点として久慈地方を統治した。
 天正19年(1591)、南部氏の後継争いに端を発し、九戸城主・九戸政実と三戸城主・南部信直が争った戦「九戸一揆」が起こり、このとき天下統一を目前としていた豊臣秀吉の命により大軍勢が南部方に加勢、大規模な戦に発展する。久慈城主の久慈備前守直治は、娘婿久慈政則とともに九戸方の武将として参戦した。
九戸一揆の緒戦は九戸方が優勢であったが、豊臣秀次を総大将とする大軍の前に後退せざるを得ず、最後の拠点となる九戸城に籠城する。城内の九戸方5千に対し、九戸城を包囲する軍勢は6万5千ともいわれ、大きな兵力差があったが、九戸方は善戦し、対する包囲軍は損害を増していった。
 包囲軍の武将・浅野長政は九戸方に和議をもちかけ、命と領地は保証するとして降伏勧告を行い、九戸方はこれを承諾、ついに降伏開城する。しかし和議の約定は守られず、久慈備前守直治・政則父子は、九戸政実と九戸方の武将らとともに捕らわれの身となり、栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)に送られて処刑された。
 「九戸一揆」の際に久慈城は戦場とはならなかったが、城主である久慈氏の直系が滅亡し、城は豊臣秀吉の諸城破却命令により取り壊された。天正20年(1592)6月の破却書立には「久慈山城破却」と記されている。
 久慈城跡は、連郭式の山城という中世城館のひとつの特徴を示している稀有な例であること、地元の大川目中学校生徒を含めた地域住民による史跡の保護活動が高く評価され、令和4年4月8日付で岩手県の指定史跡となった。

参考:固有名詞の読み方など
【大川目町】おおかわめちょう  【新町】しんまち  【八日館】ようかだて
【新町館】しんまちたて     【切金川】きりがねがわ  
【栗原郡三迫】くりはらぐん さんのはさま

【郭】くるわ…城内に築かれた人工的な平場。曲輪とも  
【主郭】しゅかく…城郭の中で最も主要な郭。久慈城跡においては一番の高所にある  
【馬場跡】ばばあと…馬をつなぎ止める場所  
【堀・濠】ほり…敵の侵入を防ぐために掘られた幅の広い溝。水をたたえた堀を「濠」と表す  
【堀切】ほりきり…尾根を断ち切るように掘られた堀  
【竪堀】たてぼり…斜面に対し縦方向に切られた堀。敵兵の横方向への移動を妨害するもの  

【久慈備前守直治】くじ びぜんのかみ なおはる  【九戸政実】くのへ まさざね
【南部信直】なんぶ のぶなお

久慈市HP記事 岩手県指定史跡「久慈城跡」
https://www.city.kuji.iwate.jp/kosodate/bunka/kyodobunka/202305161119.html
サンプルワード指定文化財/域内のみどころ

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