蛭子神社の棟札4枚
名称ヨミ | ヒルコジンジャノムナフダ4マイ |
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地域 | 長内町 |
所在地 | 岩手県久慈市長内町第17地割60 蛭子神社 |
年代 | 1.文明13年(1481),2.元亀2年(1571),3.寛永18年(1641),4.延宝2年(1674) |
指定年月日 | 市・平成5年4月28日 |
解説 | 既に市指定してあった「文明十三年」銘、「元亀ニ年」銘の棟札2枚を追加指定し、一連の貴重な資料とした。 1.文明十三年棟札 文明十三年(1481)銘の棟札は、文学による当時の記録が殆ど現存しない久慈地方の状況が窺える貴重な資料のひとつである。 銘文中の「金峯山社檀一宇」とは、明治元年(1868)の神仏分離令以前は「薬師堂」と言われていた現在の「蛭子神社」の前進と考えられえる。 藩政時代に「長福寺」から三戸郡名久井の「法光寺」に出された口上書(年代詳細不明)に「長福寺の末寺である長内村の薬師堂は、征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州下向の際に建立したもので、金峯山西光寺である。」という意味の記述がある。 建立者の「大檀那南部信濃守嫡之右京助久信」については、当時、この地方において支配権のあった津軽氏の始祖南部光信であったと推定される。 2.元亀二年棟札 元亀二年(1571)銘の棟札は、薬師堂西光寺を修築した際のもので、文明十三年銘の棟札とともに当地方の中世の様子を知る貴重な史料である。薬師、阿弥陀、観音を表す梵字と法華経中の偈(げ)がある。また、裏面に人物像が描かれているのも珍しい。 建立者の「信濃守之信長」については、根城南部14代但馬信長、あるいは三戸南部24代晴政の甥信濃守信直を充てる説もあるが、現在のところ南部氏の一族の人物であるという以外は不明である。 小檀那の小山内六郎は、「信濃守信長」の家人であり、現在の長内町一帯を治めた人と推定される。 3.寛永十八年棟札 寛永十八年(1641)銘の棟札は、薬師堂葺替えの際のものである。この年は寛永の全国的な飢饉の最中にあたるが、南部重直が盛岡城新丸を造営完成したときである。番匠とは現在の大工の棟梁であり、「泉坊」の称をはじめ「鍛冶左衛門四郎」の名は、中世的な感じが強い。また裏面に金子と記録があることは、金がt流通面において通用していたことが分かる。他の棟札と比較して願文など省略されてはいるが、前後に関連する位置を占めることから貴重な史料である。 4.延宝二年棟札 延宝二年(1674)銘の棟札は、前3件に続くもので、連続して存在していることは意義深く貴重な史料である。 銘文中「南部八戸武大輔直政公」とは八戸藩二代藩主「南部遠江守直政公」通称「武太夫」のことである。 また、小檀那の長内弥八郎、及川覚右衛門はともに久慈通りの御代官であった。大工、鍛冶のほか鍛冶に必要な炭焼きの名前や木挽の人数は52人と記録され、にぎやかな工事の様子を伺うことができる。 銘文: 1.文明十三年棟札 大壇那南部信濃守嫡之右京助久信 大工玄昌書之 時文明十三年丑巳三月二日 參・奉造榮金峯山社檀一宇 五郎信秀 番匠□清 于日祢宜清原朝ト正縄六十五才 嫡子若清六三十四才 2.元亀二年棟札 表面:□(キリーク) □(ベイ) □(サ) 參 聖主天中天 迦陵頻伽聲 哀愍衆生者 我等今敬礼 大檀那源之朝臣南部之内信濃守信長 亍時大同貳年田村将軍建立 奉造榮藥師堂西光寺一宇 于時元亀二年辛未四月八日 小檀那小山之朝臣小山内六郎別堂宮内卿 番匠小山内三郎左衛門 敬白 假冶兵部 封 封 裏面:林間煖酒焼 紅葉 我けふ ノ拝月 書哄 雲甫 3.寛永十八年棟札 表面:□(キリーク) □(ベイ) □(サ) 參 大檀那源之朝臣南部山城守重直 亍時大同貳年田村将軍建立 藥師堂上□仕年号叓 亍時寛永拾八年辛巳三月晦日 本願藥師堂別堂 甚五郎 番匠泉坊 瑕冶左衛門四郎 封 敬白 封 裏面:藥師堂上□之時觀者 金子弐分五足二日町泉坊 金子弐文五足同村三郎衛門 4.延宝二年棟札 表面:□(キリーク) □(ベイ) □(サ) 參 聖主天中天 迦陵頻伽聲 哀愍衆生者 我等今敬礼 亍眨大同貳年田村将軍建立 大檀那源之朝臣南部八戸武大輔直政公 奉藥師堂造榮金峯山西光寺 敬白 別當作左衛門 亍時寳二稔申刁ノ四月朔日 及川覺右衛門 小檀那久慈御代世 長内弥八郎 八十三工成巳上 大工 野田大平小番匠 鍛冶 門前米内傅次郎 小木引衆上数五十貳人成 炭焼 小久慈中村時太郎 封 封 裏面:南無薬師如来 慈光寺 敬白 但阿秀通書之 |
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