小田 観螢

名称ヨミオダ カンケイ
地域宇部町
年代明治
解説小田観螢[おだ かんけい](1886~1973)

 小田観螢は大正~昭和期の歌人である。九戸郡宇部村(現:久慈市宇部町)に生まれ、14歳の時に一家で北海道小樽へと移住。教職を勤めながら、多くの優れた歌を詠んだ。その人生には数多くの試練があり、「逆境の歌人」とも呼ばれた。歌誌「新墾(にいはり)」を主宰、後進の育成に努め、「北海道歌壇育ての親」と称された。


 小田観螢は明治19年(1886)、九戸郡宇部村(現:久慈市宇部町)に生まれた。本名は哲也。同じく宇部村出身の小田為綱とは叔父と甥の関係にあたる。
 生家は代々続く豪農で大地主であったが、観螢の父の代で家業が不振となり、先祖伝来の土地を次々と手放し没落する。明治33年(1900)、観螢14歳のとき、ついに家が破産し、一家は北海道の小樽に移住することとなった。観螢は小樽の奥澤小学校で代用教員の職に就き、その後60年以上に渡る教職生活の始まりとなった。この頃、教員の歌会に入会し、歌人としても歩み始めることとなる。
 大正4年(1915)、29歳の時に太田水穂主宰の歌誌「潮音(ちょうおん)」の創刊にあたり加入し同人となる。大正8年(1919)に歌集「隠り沼(こもりぬ)」を発刊、高く評価され、一躍その才能を歌壇に認められた。
 昭和5年(1930)に歌誌「新墾(にいはり)」を主宰する。この「新墾」は、戦時中に一時休刊した時期があるものの、観螢の意思を継ぎ現在も刊行が続けられている。
 観螢は生涯で6つの歌集を残している。
1 「隠り沼」こもりぬ  大正8年(1919)刊
2 「忍冬」 すいかずら 昭和5年(1930)刊
3 「蒼鷹」 あおたか  昭和19年(1944)刊
4 「暁白」 ぎょうはく 昭和26年(1951)刊
5 「天象」 てんしょう 昭和30年(1955)刊
6 「晩暉」 ばんき   未刊、昭和38年(1963)「小田観螢全歌集」に収録
 観螢の人生には幾度もの試練があり、「逆境の歌人」とも称された。最初の妻は病に倒れて他界。再婚した2番目の妻もまた病により遠地での療養となり、別離の生活が10年以上続いた末に亡くなる。男手一つで育児をしつつ教壇に立つ生活は多くの困難をともなった。その人生の悲哀と無常感は一連の歌となって詠いあげられた。
 昭和30年、観螢は当時の久慈市長の招きにより久慈に帰郷する。この際、久慈地方の各地を巡り、歌を詠む小旅行を行った。これらの歌は「郷國(きょうこく)」という小歌集にまとめられた。現在、観螢の詠んだ歌にゆかりの場所に、10基の歌碑が建立されている。
 観螢は、小学校校長、中学・高等学校の教諭や大学教授等を歴任し、76歳まで教育に情熱を燃やし続けた。また、その文化活動の功績により、北海道文化賞・北海道新聞社会文化賞・小樽市文化功労賞など数多くの名誉を得た。
観螢は「北海道歌壇育ての親」と称されており、今も深く敬慕されている。
 昭和48年(1973)、心不全のため小樽市の自宅で逝去。享年87歳。


 参考文献 小田観螢歌集抄「赤きふる郷」 外舘清幸 平成24年刊

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