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小田 為綱
名称ヨミ | オダタメツナ |
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地域 | 宇部町 |
年代 | 明治 |
解説 | 小田為綱[おだ ためつな](1839~1901) 久慈出身の小田為綱は、江戸時代の終わりから明治時代にかけて、教育者、思想家、政治家として類まれなる才能を発揮した人物である。死後、その業績は忘れられていたが、没後60年余りを経て、遺品の中から発見された「憲法草稿評林」により、その先進的な思想が明らかとなり、注目を集めることとなった。 小田為綱は、天保10年(1839)、盛岡藩野田通宇部村(現在の久慈市宇部町)に生まれた。為綱の生家は代々、南部藩の御給人(※)を務めており、生家の庭にイチョウの大木があったことから、屋号を「銀杏(いちょう)の木」と呼ばれていた。 幼少期より勉学に優れ、安政6年(1859)には江戸へ遊学し、儒学者折衷学派の芳野金陵に学ぶ。文久2年(1862)、その英才が認められ、藩の抜擢で幕府の学問所である昌平坂学問所(昌平黌)へ入寮し学問に励んだ。明治3年(1870)、郷里に戻り、藩校作人館で寮長兼長上生として教鞭をとり、後に内閣総理大臣になった原敬ら藩の若き俊才達の教育に情熱を注いだ。 明治10年(1877)、西郷隆盛が起こした西南戦争に呼応して、三戸郡関村出身の真田太古が明治政府打倒を計画。為綱は真田に頼まれるままに決起を促す「檄文(げきぶん)」を起草する。結局、計画は事前に発覚し未遂に終わるが、為綱は連座して捕縛され、約2年間投獄される。明治12年(1879)9月に釈放され、故郷の宇部村へと戻った。 明治16年(1883)、宇部村民が共有する入会地であった小倉山(こくらやま)を官有化しようとする岩手県や政府に対し、村民が異議を唱えた「小倉山一件」が起こる。為綱は請願委員として証拠に基づく言論闘争を展開し、県を説得することに成功したものの、国は強権的な態度の元に請願を却下、敗北する。この時の挫折は、後に衆議院議員を目指す動機の一つになったものと推測される。 為綱は生涯において5度、明治政府へ建言書を提出している。その中で注目されるのは、「三陸開拓上言書」(明治6年:1873)と「陸羽開拓書」(明治22年:1889)である。「三陸開拓上言書」では三陸地方の大規模開拓の構想を、「陸羽開拓書」では三陸地方の開拓に加え、新港や新道の整備、陸羽大学校の開設による人材の育成を説いた。これらの建言書はいずれも政府の採択とはならなかったが、戦後の国土開発法による総合開発計画の原型ともいえる内容となっており、為綱はまさしく、東北三陸の近代化の姿を予言した政治思想家であったといえる。 明治21年(1888)、八戸で八戸義塾を開校する。約1年の短期間であったが、後年の近代八戸の発展基礎を築いた人材の大半が、この八戸義塾から輩出している。 明治31年(1898)、衆議院議員に当選し、新しい神社制度の確立などに努めた。しかし、当選からわずか3年後、不慮の病で倒れ、明治34年(1901)、志半ばで逝去した。享年63歳。 死後、その業績は忘れられていったが、没後60年以上が過ぎた昭和42年(1967)頃、子孫の家で保管されていた遺品の文書類の中から「憲法草稿評林」が発見され、注目を集めることとなった。 「憲法草稿評林」は、明治13年(1880)の元老院「国憲」第三次草案を批判した書物であるが、小田為綱文書より発見された「憲法草稿評林」には、本文の余白などに朱書きで独自の評論が加筆されているものである。この朱書き部分は、明治13年から14年にかけて、為綱により記されたものと推定されている。その内容は、天皇が法を破るなどした場合には自ら責任を取って退位する「廃帝の法則」や、軍隊の最高指揮権・統帥権を国会両院の議決とする「議会の権限強化」など、人民主権に重きを置いた先見性に富んだものとなっており、小田為綱の業績とその思想が再評価されるきっかけとなった。 ※御給人(ごきゅうにん):南部藩における家格のひとつで、武士に準じる待遇を受けていた家のこと。地方に土着して代官の下役などを務めながら、自ら農業や商業を営んでいた。 |
サンプルワード | 偉人 |