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野田駅・小袖海岸の小田観螢の歌碑

名称ヨミノダエキ・コソデカイガンノオダカンケイノカヒ
地域小袖
所在地野田駅・小袖海岸海女センター近く
解説小田観螢は明治19年久慈市宇部町に生まれる。本名は哲弥。南部藩校の作人館教授で、原敬(後の首相)や佐藤昌介(北海道大学学長)等を指導した小田為綱を伯父にもち為綱の薫陶を受けて育ちました。
明治33年、北海道小樽に移住し、小学校・中学校・高校の教師、大学教授を歴任し、教育に情熱を注ぎました。その間、太田水穂が主宰する歌誌「潮音」創刊以来から同人となり、大正8年に刊行した歌集「隠り沼(こもりぬ)」は高く評価され、一躍歌壇に認められた。その後、「忍冬」「蒼鷹」「暁白」「天象」「郷国」などを刊行。観螢の人生には幾度もの試練があり、逆境の歌人と呼ばれ、独自の北方的生命感的叙情の理念を打ち立て、北海道の自然と人生の厳しさをうたいました。北海道文化賞をはじめ、数多くの名誉を得、北海道歌壇育ての親として深く敬慕されている。昭和48年1月1日、心不全のため小樽市の自宅で逝去しました。
観螢の歌碑は、宇部町宇部館頂上・普代村黒崎展望台・野田駅・小袖海女センター・久慈琥珀博物館・久慈駅・久慈渓流鏡岩・平庭高原・つつじケ丘・福祉の村に建立されている。
小袖海岸の小田観螢歌碑
平成3年建立
※平成23年3月11日東日本大震災の津波で流失、海底から発見され再建
野田駅の小田観螢歌碑
平成5年建立
銘文:小袖海岸の小田観螢歌碑
   「小浜菊咲くそれよりも鮑とる
    此処北限の海人をとめども」

    野田駅の小田観螢歌碑
   「ふるさとは路傍のうなゐ荷車を輓ける牛さへ見過ぐしがたし」

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