平庭高原の小田観螢歌碑

名称ヨミヒラニワコウゲンノオダカンケイカヒ
地域平庭
所在地岩手県久慈市山形町霜畑第1地割 平庭高原
年代平成5年6月11日(1993)
解説建立者:山形町、小田観螢顕彰会
小田観螢は明治19年久慈市宇部町に生まれる。本名は哲弥。南部藩校の作人館教授で、原敬(後の首相)や佐藤昌介(北海道大学学長)等を指導した小田為綱を伯父にもち為綱の薫陶を受けて育った。
明治33年、北海道小樽に移住し、小学校・中学校・高校の教師、大学教授を歴任し、教育に情熱を注いだ。その間、太田水穂が主宰する歌誌「潮音」創刊以来から同人となり、大正8年に刊行した歌集「隠り沼(こもりぬ)」は高く評価され、一躍歌壇に認められた。その後、「忍冬」「蒼鷹」「暁白」「天象」「郷国」などを刊行。観螢の人生には幾度もの試練があり、逆境の歌人と呼ばれ、独自の北方的生命感的叙情の理念を打ち立て、北海道の自然と人生の厳しさをうたった。北海道文化賞をはじめ、数多くの名誉を得、北海道歌壇育ての親として深く敬慕されている。昭和48年1月1日、心不全のため小樽市の自宅で逝去した。
観螢の歌碑は、宇部町宇部館頂上・普代村黒崎展望台・野田駅・小袖海女センター・久慈琥珀博物館・久慈駅・久慈渓流鏡岩・平庭高原・つつじケ丘に建立されている。
銘文:白樺の密林は今竪琴を夕陽に立てて旋律に鳴り

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