小嶺 磯吉

収集者名(ヨミ)コミネ イソキチ
収集者名(英語)Isokichi Komine
国籍日本
出身地肥前島原藩堂崎(現:長崎県南島原市有家町堂崎)
没地ニューブリテン島ラバウル市
生年月日(和暦)慶応02年
没年月日(西暦)1934/10/03
没年月日(和暦)昭和09年10月03日

略歴・解説

(1)幼少期~丁稚奉公時代(1866~1890)
 小嶺磯吉(Komine Isokichi)の幼少期から青年期の様子は親族の伝記『私記 くちなしの花』より伺える。小嶺は父・久左衛門と母・リエのもと、1866年に肥前島原藩堂崎にて生まれた。10人兄妹の末弟であった小嶺は父母を早くに亡くしたため、長姉夫妻に引き取られて幼少期を過ごす。15歳の時(1881年)に三兄・栄三郎の口利きで朝鮮・仁川の海軍御用達問屋・福島屋に丁稚奉公することになり、長崎経由で朝鮮半島へと渡っている 。
 福島屋は日本と朝鮮間での衣類や雑貨類の輸出入および郵便物の輸送を主事業としており、将校から水兵に至るまで海軍関係者が大勢出入りしていた。真面目で気働きのある小嶺は上役や店員仲間ともすぐに打ち解けたという。また福島屋では朝鮮人も下働きとして雇用されており、小嶺は彼等とも積極的に付き合う中で親交を深め、朝鮮語を教えてもらうまでに至っている。小さな手帳に朝鮮語を書き留めて暗記する勤勉な小嶺の姿を見て、出入りする海軍関係者も目をかけてくれたという。一年も経つと日常会話に不自由しないまでに朝鮮語が上達し、大きな仕事を任せられるようになる。しかし一方で、1882年に壬午事変、1884年に甲申事変が起こるなど朝鮮では対日感情が悪化し、不安定な情勢が続いていた。或る日、小嶺は店の使いの帰り道で海軍士官が朝鮮人暴漢に襲われている現場に出くわす。機転を利かせた小嶺は朝鮮語で暴漢らを説得し、士官を助けている。この士官は福島屋に出入りし、小嶺とも顔見知りの上村彦之亟であった。この一件は瞬く間に海軍内で広まり、小嶺の豪胆と機転を皆が賞賛したという。上村は小嶺を気に入り、学問の学び方や哲学、人間としての生き方、国家についての考え方などを教えた。また上村は世界の共通語である英語を習得することを小嶺に強く勧め、小嶺は英語の勉強にも取り組んだという。
事件後も福島屋に奉職していた小嶺だが、仁川の気候になじめず、また激しさの増す排日運動にも嫌気がさし退職について思案していた。そんな折に仁川に寄港した上村に相談したところ、思う通りにやってみよと激励してくれたため、1889年頃に福島屋を退職し朝鮮を後にした。


(2)潜水夫・探検家(1890~1901)
 以前より福島屋を出入りしていた関係者が南洋での真珠貝の採取事業を小嶺に持ちかけていたようで、福島屋を退職した小嶺は南洋で海産物採取を生業とする潜水夫として身を立てることを目指し、1890年にトレス海峡(Torres Strait)の木曜島(Thursday Island)へと出発している。1890年から1895年にかけて小嶺は潜水夫として労働に従事する傍ら、日本人移民のための新たな漁場や農園の開拓を志してニューギニアを航海している。この時期の小嶺の活動については彼自身が『殖民協會報告』に寄稿した「南洋探檢實況報告」に特に詳しい。
 1890年に長崎から香港に渡った小嶺は九月一四日香港を出帆し、同月二七日に木曜島に到着、英国人が経営する採貝会社モツク・アウトレッツコンパニ―に潜水夫として雇用されている(10月5日)。1890年から1891年にかけては専ら海上生活を送り、トレス海峡や北オーストラリア沿岸で海産物採取や資源探索を精力的に実施した。また1892年には新たに内陸探索に乗り出している。4月23日から3週間ほどの休暇を得た小嶺は北オーストラリアに赴き、ポートドグラス(Port Douglas)、ブロンペン(所在地不明)、クックタウン(Cooktown)を経由して山間の探索を実施した。その際、中国人20人余りが使用される耕作地やドイツ人が経営する82エーカーの耕作地を目にしており、特に後者を訪れた際にはドイツ人経営者が小嶺に280ポンドで売却してもよいと持ち掛けてきた。しかしながら資金的問題から小嶺はこの申し出を謝絶し、休暇後は引き続きトレス海峡や北オーストラリアでの潜水漁業や資源探索に注力した。特にクックタウン北部にある漁場が有望であると確信した小嶺は同地域で海産物を扱う会社を興すため、同年10月に松岡好一や岡村百槌を東京に派遣している。結果的には松岡や岡村を通じて国内の有識者に呼び掛けた起業計画は成就しなかったが、同年11月に田口瀧蔵と共に二艘の採貝船を購入し、独立起業を果たしている(。また翌年(1903年)1月に在留日本人による自治を目的に組織された「日本人倶楽部 Japanese Club」の委員に小嶺は選出されており、このころには既に日本人移民の中で有力者と見なされていた可能性が高い。この年もまた年間を通してトレス海峡で潜水漁業に従事する傍ら、調査を継続したことが分かっている。1894年10月には当時オランダが統治していたニューギニア南西部(蘭領ニューギニア)にも足を伸ばし沿岸調査を実施している。また同年11月9日には日本から辻謙之助が来島し、小嶺と面会している。辻は先年に榎本武揚が南洋貿易と移民事業の促進を目的に設立した拓殖協会の会員であり、吉佐移民会社の木曜島代理人でもあった。同月15日午後、小嶺は辻を乗船させて採貝実地探検に出発しニューギニア島東部・ルイジアード諸島(Louisiade Archipelago)にあるレブリン島(Lebrun Island)に上陸、調査を実施した。辻が榎本に宛てた手紙の中には「小生の乗り込み居る採貝船シシー号の持主は長崎の人にして、潜水師中屈指の人物、小嶺磯吉と申す人なり。此の人は国家的思想ある人物にして、海産及び農業にも心を委ね、将来望みある人物に有之候」としたためられている。また小嶺は1894年から1895年にかけて内陸探検に赴いており、ニューギニア島南部のフライ河(Fly River)およびビナツリ河(Binaturi River)を遡上探検している。この探検は後述の日豪貿易会社で扱う商品のプランテーション適地を探索するものであった可能性が高い。一方で小嶺と意気投合した辻は1905年12月にポートモレスビー(Port Moresby)に赴き、殖民事務大臣(ギユヰーム・マグレゴル)と会談し、土地払下げに関して打診したところ、話は有望に展開したという1896年8月に小嶺と辻は貿易・殖民・水産関係を主事業とする日豪貿易会社の設立を目指す同志を募るために帰国している。
 帰国から約一年後、京橋鎗屋町に滞在していた小嶺夫妻のもとに上原芳太郎が訪れている。上原は日清戦争以後、海外への教線拡張を計画していた本願寺法主・大谷光瑞師の命を受けて龍江義信や阿部一毛らと共に南洋開拓に向けた予備調査を計画していた。当時は英領ニューギニアへの適当な定期便がなく、また航海術を身に着けている人物が本願寺関係者にいなかったため、帰国していた小嶺に白羽の矢が立った。小嶺はこの申し出を承諾しているが、これは本願寺一派との関係性を構築することで資金援助を引き出す狙いがあったのかもしれない。同年7、8月頃には出航計画が固まり、調査隊は龍江義信、阿部一毛、上原芳太郎、小嶺磯吉、小嶺長、晩翠軒主の井上清秀、牧水産局長親族の阪本是儀、他二名で構成された。
 小嶺が航海士として同行した南洋調査隊は西廻り経路(中国大陸経由)で木曜島へ向かったことが上原の旅行記『外遊記稿』から分かっている。1897年12月9日に神戸港を出発した調査隊一行は、門司を経由して一五日に香港に寄港し、領事館を訪問している。18日に出航してルソン沖を通過し、27日にポートダーヴィン(Port Darwin)に寄港、木曜島に到着したのは31日のことであった。その後、小嶺と本願寺一派は三か月ほど別行動をとったようで、翌年から本願寺一派は14、5トンの老採貝船を借りて木曜島やヤマ島(Koia Yama Yama Islandのことか)での現地風俗・経済調査、日本人採貝移民者への聞き取り、英国現地行政官との会談などを実施している。この間の小嶺の行動については不詳であるが、おそらくは採貝船を操り漁場開拓を実施していたのだろう。小嶺はニューギニア総督ウィリアム・マクレゴルと土地払下げについて議論するためにヤマ島に訪れていた上原と龍江を採貝船に乗せ、3月18日木曜島に帰航している。その後、調査隊のうち上原は帰国、阿部と龍江は残留して調査を続行することとなり、阿部がブリスベン(Brisbane)、ロックハンプトン(Rockhampton)、タウンズビル(Townsville)を巡回し、龍江は小嶺と農場材木の本場ケアンズ(Cairns)を視察している。小嶺はその後も航海士として英領ニューギニアを巡る龍江に同行していた可能性が高く、一八九九年二月に龍江が一時帰国するまでオリオモ河(Oriomo River)流域の遡上探検をはじめとする英領ニューギニアでの民族調査に同行したことが分かっている。小嶺は同年の暮れに蘭領ニューギニアの探険調査に出発している。当初は数か月で戻る予定であったが計画を変更し探検を続けてニューギニア沿岸を一周し、一九〇一年に小嶺は独領ニューギニアにたどり着いた。


(3)植民地政府の現地エージェント(1901~1905)
 1898年に小嶺は龍江と共にケアンズを視察し、プランテーション経営を計画するも、同年に申請したオーストラリアへの帰化願いが却下されてしまい、計画は頓挫してしまった。また同年12月にはクインズランド州法が改正され、イギリス国民以外が州内で船を所有ないし借船して独立営業し、真珠母貝および海鼠などを採取することを禁止するなど、英領内での事業開拓が困難な状況となっていた。折しも、排日運動も過熱化したため、小嶺は新天地を目指すことを決意し、二艘の10トンスクーナー船(「ザブラ号」「パプア号」)を用意して蘭領・独領ニューギニアの各地を巡航探検、1901年10月にニューブリテン島(New Britain Island)東部に辿り着いている。遅くとも1902年までに同島のヘルベルトショヘ村落(Herbertshöhe village)にて独領総督のアルベルト・ハール(Albert Hahl)に面会し、小嶺は所有する船舶と共に植民地政府に雇用されている。その理由として現地に支庁が開設されて間もなく現地行政官が少数であったこと、小嶺の所有する船舶が小回りの利く大きさであったためと伝えられる。
 独領ニューギニアの踏査および島民の武装解除を委託された小嶺が着任後に主に担当した地域はニューアイルランド(New Ireland)であった。植民地政府が禁止した後も常習的に食人を行っていたと告発された現地首長を討伐するため、1902年に部隊を引率してニューアイルランド島南部タハラ村落に乗り込みこれを討ち取っている。また、再び南洋調査を計画して木曜島に戻っていた龍江と独領ニューギニアで再会し、同年12月より龍江と共にニューアイルランド島南部パトパター地域(Patpatar region)を踏査している。後年の龍江の随筆には調査の概要と小嶺と共に踏査した村落の名前がカタカナ表記で挙げられている。龍江によると彼と小嶺、現地人水夫6名で構成される調査隊一行はザブラ号に乗船し、12月6日にヘルベルトショヘを出発している。デューク・オブ・ヨーク諸島(Duke Of York Islands)のマタカル(所在地不明)を経由し(同月7日)、ニューアイルランド島西海岸のカバノツ村落(Kabunut villageか)に到着している(同月8日)。調査隊はニューアイルランド島の西海岸と東海岸の村落を巡り、同月一七日までにヘルベルトショヘに帰航している。またハールの日誌によれば、小嶺は同年内にニューアイルランド島南部パトパター地域西海岸にあるウムドゥ地区(Umudu District)を踏査し、石炭鉱床を発見している(Sack and Clark 1980: 91-92)。1903年には行政支庁を建設するためにハールが実施した現地調査に同行し、ニューアイルランド島南部東海岸にあるナマタナイ村落(Namatanai village)周辺を踏査している。一方で同年内にソロモン諸島ブカ島(Solomon Islands, Buka Island)とブーゲンヴィル島(Bougainville)の間に浮かぶタイオット島(Taiot Island)でリクルーティングを実施するなど、時にはニューアイルランドを離れて活動することもあったようだ。1904年頃にはナマタナイ村落の沖合にあるタンガ諸島ブアン島(Tanga Islands, Boang Island)で生じた部族間紛争を調停するために赴き、島民と直接交渉して彼らに槍を放棄させ、武装解除させることに成功したことが現地島民の口承より判明している。当時の小嶺は植民地政府に信頼されていただけでなく、現地民からの敬慕もまた深く、猛悪な食人種の部落さえ小嶺を命に従ったと報告されている。その後、日露戦争(1904~1905)の勃発による対日感情の悪化を受けて小嶺は植民地政府の現地エージェントの職を辞している。在職期間は約3年間ほどであったが、小嶺が現地島民と直接交渉する立場にあったことは間違いない。


(4)商売人・経営者(1906~1934)
 ドイツ植民地政府の職を辞した後、小嶺は主にプランテーションや造船の分野で商売人・経営者として頭角を見せ始める。1907年以降、小嶺はドイツ貿易商会ヘルンシェイム商会(Hernsheim Co.)の現地エージェントとして活動している。アドミラルティ諸島(Admiralty Islands)の主島マヌス島(Manus Island)北岸沖に位置するポナム島(Ponam Island)にプランテーションの開設をヘルンシェイム商会より任じられた小嶺は島民から土地を購入し、開墾を開始した。土地の購入・租借にかかる費用や人件費には植民地政府の現地エージェントとして雇用されていた時期に得た資金が運用された。また小嶺のプランテーションでは主にマヌス島民が雇用され、その多くが三年ほどの年季契約であり、多くの島民が入れ替わりで雇用されていた。1909年に島民から襲撃を受けたマヌス島西岸のカリ湾(Kali Bay)の拠点でも島民を雇用していたことが報告されている。その他、10名余りの日本人が現地島民の監督者として雇用されていたことが分かっている。1911年11月頃にマヌス島北岸でルイスが撮影した写真には建築中も含めて六棟の建物と見張り台が写し込まれている。一際大きい建物の内部やその周囲には現地島民と推測される人々が多数確認できる。画面左下には、剥ぎ取られたココヤシの外果皮が多数散乱していることから、ここではコプラを取り扱っていたと考えられるため、写し込まれる島民はココヤシ農園ないしコプラ加工に従事した労働者と考えてよい。小嶺はこれらの土地を含めてマヌス島北岸およびその沿岸の島々の土地を開墾してココヤシプランテーションを拡大させる。1912年までには合計で約500ヘクタールのプランテーションを経営するまでに至り、1913年までにはドイツ領植民地政府から正式にこれらを借地することに成功している。
 また小嶺は1907年5月にニューブリテン島東部シンプソン湾(Simpsonhafen)に面するラバウル村落に小規模ながら造船所用の借地を得ている。1910年には新たに20名ほどの日本人が独領ニューギニアに渡航しており、その大半は小嶺が誘致した大工や造船技師であった。翌年一九一一年にもラバウル港内に位置する造船所の適地(1ヘクタール)の借地権を取得し、造船所の建設に着手している。造船事業を拡大させる中で、小嶺はラバウルを中心とする日本人移民コミュニティーの更なる発展を画策し、1912年にドイツ・ニューギニア小嶺商会(神戸)を組織、造船工移民の募集および物資の供給を図った。この時期に渡航した人物として、後に小嶺の経営基盤を継承する長濱太市がいた。この時、上村からの紹介を受けて士族出身の鮫島三之助を雇用している。彼はラバウルに造船所を設立するための技師職工を招集し、彼らと共に渡航している。ラバウルの造船所では50名余の日本人と数名の中国人が雇用されていた。1911年から1912年の年次報告書ではラバウルとマヌスに居住する日本人が41名に上ることが記されている。また1912年から1913年の年次報告書において、ラバウルの日本人移民向けの住宅の建造が進み、造船所が拡張する様子が記録されている。同様に小嶺はアドミラルティ諸島のピテル島にも造船所を建設し、そこでは10名余りの日本人職工が雇用されていたことが報告されている。職工を引率した鮫島自身はアドミラルティ諸島でのプランテーション事業に参画し、アドミラルティ諸島を隈なく巡ったという。小嶺造船所は総督府の御用達として造船・修繕・建築・家具販売などを取り扱っており、総督府からの支払いは課税分を差し引いても20000ドイツマルクにまで達したという。その他にも、1911年までにアドミラルティ諸島での海産物採取権が日本人に認められるなど、様々な事業に注力していたことが伺える。こうした事業経営を円滑に実施できた理由の一つには現地エージェントとして雇用されていた時期に培ったドイツ植民地政府との関係性が継続していたことが挙げられるだろう。
 その後、ヘルンシェイム商会への債務不履行(65000ドイツマルク)から逮捕命令が出されたため、小嶺は1913年11月に日本に一時帰国している。その際、京都の上原芳太郎宅を訪問し、現地での活動状況を報告するとともに新規事業に取り掛かるための株式会社を設立したいと相談したところ、出資者を募ってみてはどうかと助言されている。この助言を受けてか、辻新次、松方幸次郎、志村源太郎、大倉喜八郎、村井吉兵衛、福島浪蔵の6名と会談して自身の事業について報告したところ、新事業を興すことが議題として挙がり、融資の可否を検討するために辻の息子である辻太郎や大倉組の高松義郎が現地に派遣されることとなった。一九一四年夏に小嶺の事業を視察した辻らは事業の可能性を感じ取り、帰国後に新事業に着手・融資することを約束した。奇しくも小嶺が帰国した1913年から1914年にかけて、独領ニューギニアを市場とする会社設立の動きがあったことが日本国内で確認できる。しかし第一次世界大戦の勃発により結果的に小嶺の新事業計画はまたしても頓挫してしまう。
 第一次世界大戦の勃発直後の1914年8月、小嶺商会が造船に使用する木材の採集・運搬のためにニューアイルランド島に向けてラバウル港から出港しようとした際、日独開戦を理由にドイツ人現地行政官に所有する船(ナマヌラ号)を押収され、発動機を取り外したうえで港に係留されてしまった。情勢が不安定となり工場は閉鎖、店舗は休業せざるを得ない事態となった。
 小嶺は現地在留邦人200名と現地島民1500名余を率いて自警団を組織し、ラバウル市内および近郊の治安維持にあたり、在留邦人の生命や財産の保護に尽力した。オーストラリア軍進駐以後はオーストラリアに協力している。小嶺はオーストラリア軍の依頼を受けて、同年11月から12月にかけてアドミラルティ諸島およびウェスタン諸島(Western Islands、別名ヘルミット諸島 Hermit Islands)方面への進駐軍の水先案内人を務めている。彼自身は開戦以降連絡が途絶えていた夫人や社員の安否ならびにプランテーションの様子を確認することが同行の目的にあった。小嶺はアドミラルティ諸島の支庁ロレンガウに到着した際、武器を携えて山中で抗戦しようとしていたドイツ人現地行政官を説得し、支庁の明け渡しを実現させたという。夫人や社員の安否確認とプランテーションの視察を済ませた後に小嶺はラバウルに帰航している。他にもオーストラリア軍進駐後も現地に在留したドイツ人貿易商ハインリッヒ・ウォーレン(Heinrich Wahlen)が、アメリカ行きの貨物に書類を紛れ込ませてアメリカ在住のドイツ人にオーストラリア軍の動きを伝えていることを小嶺は告発するなど、小嶺はオーストラリア軍進駐に大いに貢献した。これらの対応から、それまで友好的であった在留ドイツ人との関係性は悪化してしまい、以降はオーストラリアとの関係性を深めていくこととなる。
 戦中の功績から小嶺はウォーレンが独占経営していたウェスタン諸島の高瀬貝採取漁場(トツペルリーフおよびクライスリーフ)での操業権を取得したほか、25000ポンドの融資を受けることに成功している。オーストラリア軍は拿捕したヌサ号の修理を小嶺造船所に委託、小嶺が所有するバンザイ号を海軍の任務遂行のために借り入れている。その他にもオーストラリアによる統治下ではニューギニアの全ての産物はバーンズ・フィリップ社(Burns. Philip. Co.)を通じてシドニーに輸出されることが取り決められていた中で、ドイツ・ニューギニア小嶺商会はコプラや海産物を日本に直接輸出することが特例として許されたことからも、小嶺が非常に厚遇されたことが分かる。
 しかしこのような厚遇に恵まれていたにもかかわらず、第一次世界大戦以後の小嶺商会の事業成績は芳しくなかった。大戦後は小嶺への在留ドイツ人の信用は失墜し、ドイツ系貿易会社との取引が中止した。それに加えて船舶の不足から日本への輸出貿易業は不調であり、造船業も第一の顧客であったココヤシ栽培業者が大戦の影響から新たな造船を躊躇し、僅かばかり船の修理を依頼するに留まっていた。大戦以前に仕入れていた大量の造船用資材を抱え、職工への賃金支払いも滞り、雇用する450名の現地島民労働者への食糧、定期支給品および日本人監督者への賃金にかかる費用を工面する必要があった。しかしプランテーションのココヤシもまだ成育段階にあり、損失を補填するほどの収益は見込めなかったため、オーストラリアより認可された漁業権による収益だけでは造船・ココヤシプランテーションでの欠損を補填することは困難な状況にあった。1915年11月にはドイツ・ニューギニア商会への債務不履行からアドミラルティ諸島での全ての権益を没収されかねない状況に陥っている。この時はオーストラリア政府から融資を受け危機を脱しているが、翌年5月には改めて在シドニー日本大使館に融資を求める請願書を送付しており、慢性的に資金繰りに苦慮していた状況が伺える。
 そして1917年10月、大倉喜八郎をはじめとする出資者への利益配分ならびに事業整理を済ませた後にドイツ・ニューギニア小嶺商会は大阪に拠点があった南洋産業株式会社に吸収合併されることとなった。だが実態は小嶺商会と事業内容に違いはなかったようで、小嶺は同社の常務取締役としてラバウル支店に駐在し、引き続きプランテーションや造船、海産物採取、輸出入貿易業を取り仕切っている。1924年の時点で在留邦人、中国人、現地島民を580名ほど雇用してココヤシプランテーション(邦人5名、現地島民約400名を雇用)、海産物採取業(船舶6艘を運用、邦人8名、現地島民120名を雇用)、造船業(邦人2名、中国人40名を雇用)、貿易業(社員5名を雇用)などを手広く展開しており、これらの功績から大日本産業協会より表彰されている。また1929年には小嶺が運営する南洋産業株式会社ラバウル支店では邦人14名、現地民362名が雇用されており栽培・造船・漁業・貿易で26000ポンドの利益を上げていると報告される。
 ただし、これらの報告を鵜呑みにして小嶺が優秀な経営者であったと評価することは早計である。1920年頃に小嶺は自身の所有する全資産を抵当として約16000ポンドの融資をシドニーに本社を置くバーンズ・フィリップ社(Burns. Philip Co.)から受けているが、その融資内容には事業資金の他に社員へ未払いの賃金も含まれていた。加えて第一次世界大戦期にドイツに接収された際の損害補償を1925年および1929年の二度に渡って日本政府に申請しており、慢性的に資金繰りに喘いでいた状況は南洋産業株式会社との合流以前と変わっていないと言わざるを得ない。1925年頃からはバーンズ・フィリップ社に融資の返済を一切していなかったという。そのためバーンズ・フィリップ社は小嶺の事業成績では債権を回収できる見込みがないと判断し、1930年に小嶺の全資産差し押さえを通告する。この事態を回避するために小嶺や南洋産業株式会社が提出した請願を受けて、1930年7月にシドニー総領事・井上庚二郎から外務大臣・幣原喜重郎宛ての小嶺に対する資金援助の請願書が提出されるも、小嶺の事業成績は不確かであることなどを理由にこの嘆願は実質的には黙殺されている。結果的に小嶺が保有する全資産が差し押さえられ、12月30日に競売に掛けられている。その後、小嶺のプランテーションならびに造船所は長濱およびア・タムとその親族が購入して事業は継承された。小嶺は以前より、ア・タムとその親族の援助のもと、小嶺の事業を継承するよう長濱に依頼していたという。保有していた資産を失ったのちも小嶺はニューギニアに残ったが、再起を図るためにスクーナー船スワ号で遠洋漁業に出ていた際に口にしたイセエビの中毒が原因で、1934年10月3日にラバウルにて長逝している。翌四日にはラバウル市内で盛大な葬儀が営まれ、小嶺の棺は日豪両国の国旗で覆われた。また在留邦人のみならず諸外国人や現地島民らが多数参列し、小嶺の死を悼んだという。小嶺の遺骨は妻・長によって日本に持ち帰られたが、ラバウル在留日本人の強い要望もあり翌年七月一五日に南洋貿易株式会社汽船平栄丸船長菊池清雄によって小嶺の遺骨の一部がラバウルに届けられたという。


★関連文献
山口徹 2015 「ウリ像をめぐる絡み合いの歴史人類学ービスマルク群島ニューアイルランド島の造形物に関する予察ー」『史學』85(2): 401-439
臺浩亮 2020 「植民地期のニューギニアにおける小嶺磯吉の活動に関する予察―1905年から1911年における収集活動を中心に―」『史學』89(3):1-52

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■ 執筆担当者:臺 浩亮(Kosuke Dai)
■ 解説文公開日:2020/04/22
■ 解説文更新日:
 ① 2020/04/23(参考文献、注釈を削除しました)
 ② 2021/02/15(関連文献を追記しました)
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