略歴・解説
澤熊五郎の二男、比角の漢学者星野忠三郎の養子。新潟県第二師範学校(高田師範学校)を明治41年卒業後、西蒲原郡小中川小学校訓導となり、翌年に訓導兼校長となる。明治45年から比角尋常高等小学校(現比角小学校)へ着任し、大正7年31歳で校長を兼務する。昭和6年までの20年間の学校経営では、大正時代の自由な風潮を背景に、自由画教育の推進をはじめ校章や校歌(作詞洲崎義郎、作曲太田芳郎)を制定する。また、刈羽郡下初の米国製映写機を購入。学芸会では児童劇やピアノ・ヴァイオリン・マンドリンの合奏指導。そして県下少年少女オリンピック大会総合優勝。虚弱児特別臨海教育などにつくす。これらは校長の創造教育や洲崎村長との連携が校風樹立に貢献している。昭和7年から7年間柏崎尋常高等小学校で訓導兼校長となる。郡市の中心校の要職をつとめ教育界での役割を果たす。