略歴・解説
家業は農業兼行商を営む。温厚篤実な人柄。不毛の刈羽砂丘地の利用を考える。旅先で桃が砂地に適することを知り、桃作の利益を唱え、困苦に耐え荒地を開墾して桃畑とする。嘉永年間(1848~53)35歳までは試作品にすぎなかったが、完成し、明治初年、柏崎閻魔堂前の店先で売るようになった。明治末年には20町歩、県の模範果樹地の指定となる。大正年間の最盛期には下高町・上高町・正明寺のほか西中通の山本などで計60町歩で栽培され、上越や長野へ出荷するようになる。当時は4月中旬になると臨時に桃林駅を開設し、連日花見客で賑うほどであった。戦時中は軍用地となり伐採されたが、徐々に復活。明治34年山王神社に頌徳碑が建つ。