略歴・解説
大地主で8代正茂の子、9代当主名は正範、通称藤右衛門、号を哲斎、俳号を章嶂、亀石。維新前後十数回の献金。明治11年明治天皇北陸巡幸の際、接伴役を務め、御野立公園に中国から漂着した「峨眉山下橋」の標木を建て旅情を慰める。また柏崎行在所では拝謁に浴す。明治12年以降県会議員に数回当選。公益を旨とし道路開通を叫び、明治20年代に松代(十日町市)~与板(柏崎市)間、十日町(十日町市)~岡野町(柏崎市)間の道路が完成した。余技は詩文・書画・茶道・築庭などを楽しむ。特に広済寺の襖絵「浮嵐暖翆図」は国内絵画共進会(帝展)で画風が評価され一等賞を受ける。
"朝晴や 思はぬ処へ 揚雲雀" はこの時の感懐である。