略歴・解説
新道旧家飯塚家の人。15歳で北魚沼郡並柳の割元役(大庄屋)関矢家を継ぐ。勤皇の志厚く、慶応4年(1868)の北越戦争では農民と共に政府軍の力となる。その後魚沼の郡長、銀行頭取、衆議院議員となる。当時政府は北海道開拓を奨励。明治19年有志が出資し「北越植民社」を創設、大橋一蔵が代表となり江別市江別太に入植するが、2年後に事故死。その後継者に推薦され江別市野幌の原野開拓を応諾。明治23年困窮する越後農民400余名を統率し北海道へ渡り、29年間辛苦を共にする。その記録は『北征日乗』に詳しい。明治25年、開拓地隣接の御料林(皇室領)が周辺町村へ払下げられることを知ると、開発が進み、野幌周辺の気候が変化し、森林の水が枯渇して水田に影響すると再三訴え、遂に広大な原始林を守る。この原始林(2千町歩)は野幌森林公園(現道立自然公園)として姿を残している。