略歴・解説
笠原為治の二男、兄米作の造園業を手伝う。京都で高名な小川治兵衛にめぐりあい、腕を磨き現場をまかされる。夜間は芸事の華道・茶道・俳諧などに励む。定例の銀閣寺茶会に出席し、昭和4年庭内散策の折、洗月泉に竹の樋をかけ池に水を落していることに疑問をもつ。調査し、石組の樋が400年の間に土砂の崩れなどで埋没の事実を発見。また昭和6年銀閣寺内東求堂の丘から足利義政愛用のお茶井戸なる石組を発見。造園学の権威龍居松之助指導のもと、これら2つを復元した。苦労の甲斐あり斯界の一隅に名をあげる。これを契機に各地の名園を手がけた。県内では新発田市清水園、中蒲原群横越町北方文化博物館、岩船郡関川村渡辺邸、柏崎市植木邸豊耀園などがある。