略歴・解説
文久4年(1864)、京都所司代(京都の朝廷公家、町や西国大名の行政監視)に任命される。しかし慶応3年(1867)12月王政復古により解任される。翌年戊辰戦争が起こり、旧幕府軍が大敗すると、将軍慶喜は江戸で謹慎し、兄の会津藩主容保は会津で謹慎。定敬の一行は、慶応4年3月30日桑名領柏崎の勝願寺に到着。後を追い恭順派(謹皇派)の吉村権左衛門は“桑名城内が朝廷に忠誠を誓った”と説得するが、会津藩が主戦派に転ずると定敬も同調。定敬は権左衛門を暗殺して主戦派に藩論を統一した後、本営となった加茂に赴く。間もなくして鯨波戦争が起きた。明治2年北海道函館戦争直前に脱出。後に罪が許されると、桑名藩戦死者を柏崎の勝願寺で供養し、晩年は日光東照宮宮司となる。