略歴・解説
明治13年21歳のとき、儒学者青柳剛斎の漢学舎塾頭となる。当時の自由民権運動に刺激され、柏崎自由党の松村文次郎を助ける。新潟の北越学館教師をへて東北日報の記者となる。明治22年、沿海州サケマス漁業と対岸貿易の必要性を説き、国策による北陸3県(新潟・富山・石川)が一体となって当たるべきだと主張し、新潟にある単独会社を批判。新潟県知事に無視されるが、自力で魁丸を調達して、3県事業の名目で出漁し、貿易を成功させる。さらに日露定期航路の必要性を主張。再三国会に陳情し、実を結ぶ。明治36年衆議院議員に当選。大正12年、日ソ漁業条例締結とともにロシア領水産組合を創設し、開拓地を斡旋する拓殖協会県支部長となる。海を愛し、清貧に甘んじた政治家であった。