略歴・解説
洋医宮川赳庵の長男。医専済生学舎で勉学後、静岡での眼科医院勤務をへて、明治25年中浜で眼科医を開業する一方、同所で明治31年(37歳)弟の久平と共に「赳庵産婆講習所」を2年間開設する。明治33年弟が校長となり「柏崎産婆学校」と改称し、東本町3丁目(旧本町8)に移り人材育成に努めるが時代の変化により昭和25年閉校。その後准看護婦養成所として続ける。一方、明治39年文平は郡内鍼灸組合員の要請により、盲唖者自立のため自宅で鍼按講習所を開設、教師を招き準備を整える。2年後県より妙行寺山内七面堂での「私立中越盲唖学校」の認可を受け開校。その後所在地は変わり、大正初期には柏崎小学校前の大隊区司令部跡に移る。しかし大正12年学校令で閉校。大正4年刈羽村のトラホーム流行ではかつての手腕を発揮。一連の社会事業者である内村鑑三との交流から隣人愛の奉仕がうかがえる。