略歴・解説
與助は大久保尋常小学校(現大洲小学校)へ入学するが、途中、父の米相場の失敗で奉公に出る。22歳の時上京。八百屋店を開き、独立する。バナナの色付け法を見出し、大繁昌した。その後、水産業界に進出し、日本漁業株式会社の再建に尽力し、33歳で取締役となる。大正11年45歳で日米水産株式会社を設立。アメリカへ鱈を輸出する。一方、ユニークな宣伝広告で「鮭」「粕漬け鱈」を日本橋呉服橋で販売し、人々に喜ばれる。また芝浦に自社製品等を保管のため冷蔵倉庫を建設する。昭和15年、私財を投じ水産資源の宝庫「北千島・幌筵島」に6年を費やし不凍港を完成、「與助港」と命名する。晩年は郷土を思い、與助道路・浚渫船・五十嵐記念館(現大洲小学校内)など柏崎市へ寄付する。