星野 藤兵衛

じんぶつ名(ヨミ)ほしの とうべえ
生年月日(西暦)1828
生年月日(和暦)文政11年
没年月日(西暦)1876
没年月日(和暦)明治9年

略歴・解説

星野家は代々酒屋質屋を営み、幕末に苗字帯刀御用達を賜わる。文久3年(1863)国学者で萩藩士近藤芳樹は越後の動静調査のため星野邸を訪問する。近藤は国の情勢を熱ぽく語ると藤兵衛は痛く共鳴し、王政復古への協力を誓う。5年後の正月、戊辰戦争が勃発し、3月中旬官軍の先鋒隊が糸魚川に到着すると星野は越後の不穏な情報を伝え、資金・兵糧・人夫などの提供を申し入れ、町の救済を願う。閏(昔の暦によりこの年は4月を2回とり一年を調節する)4月27日、鯨波戦争前日も官軍に前回と同様のことを申し入れ、体を張って戦火から町を救う。柏崎民政局御用係を拝命し、官軍通過後の数ヶ月間は連日多忙をきわめる。財も使い果たすが敬愛される。なお慶応3年の自著『湯あみ日記』は北魚沼郡栃尾又郷湯元での湯治でのもので、文人との交友があったことを伺い知ることができる。墓は妙行寺にある。

このじんぶつの資料一覧[全5件]

件ずつ表示

PageTop