略歴・解説
医者曽田訓之の長男。東京帝国大学医学部在学中、関東大震災の貧困者救済事業であるセツルメントに仲間と参加し、医師への道を決意する。慈善病院などで診察・研究などをしていると当局の監視が強まり昭和5年27歳の時、台湾総督府で16年間過ごす。この転職は社会医学(社会的原因と健康との関係を追求する医学の一分野)研究のためである。この間、細菌学の学位を取得、米国留学、台北帝大医学部教授などをへて昭和21年帰京。国立公衆衛生院では公衆衛生に関する調査統計を進め、昭和23年厚生省衛生統計部長となる。60歳代は公衆衛生院院長、同学会会長に就任する。第21回世界保健機関政府代表の総会議長など歴任。昭和49年森永砒素中毒事件では解決に尽力した。真のヒューマニストであった。