中村 藤八
資料名よみ | なかむら とうはち |
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分類(ぶんるい) | 人物 |
人物(じんぶつ) | 貞心尼 |
校区(こうく) | 新道小学校 |
解説(かいせつ) | 農家に生まれる。明治21年35歳のとき商業の道を決断し、地主に出資を求め、肥料米穀を扱う「柏崎物産会社」を創業するが、苦労が多く「物産売捌所」と改名し、個人事業として再出発。藤八は自著『中村家系譜』で、“公益を優先し私利を後に、勤勉誠実で仕事に当たれば助ける者がある”と述べている。やがて石油や米穀商の組合長、回漕や運送業の重役となる。大正7年、刈羽郡立図書館へ収集した膨大な郷土資料を中村文庫として寄贈。大正8年7月「刈羽鉄道期成同盟会」を結成し、発起人となる。鉄道技師を招き柏崎~十日町間の測量をし、鉄道院に認可申請。上京中発病して他界する。飯塚弥一郎期成同盟会会長は弔辞で、「志は未だ成らないが熱誠は町民の鏡である」と述べた。 |