| 略歴・解説 | 1888 京都市下京区芦刈山町の染呉服業の家に生まれる。
1903 伊藤快彦の画塾や浅井忠の洋画研究所で指導をうける。
1908 渡仏し、ルノワールの作品に強く感化され、翌年より師事する。
1913 帰国後、滞欧作品を発表し、画壇に衝撃を与える。
1914 二科会創立に参加し、1918年まで参画する。
1922 春陽会創立に参加するが、1925年岸田劉生とともに脱会する。
1925 国画制作協会第二部(洋画)創設に参加する。
1928 国画制作協会第二部を国画会と改称し、中心となって活躍する。
1934 1月、初めて鹿児島に旅行し、桜島などを描く。
1940 2月、鹿児島にて制作、数年来の九州風景の連作を終了する。
1952 安井曾太郎とともに文化勲章受章。
1986 急性肺炎のため97歳にて逝去。
梅原龍三郎が描いた桜島の素描・水彩
1888(明治21)年、京都の染呉服業に生まれた梅原は、1903(明治36)年、画家を志して京都府立第二中学3年のときに中退し、安井曾太郎とともに、浅井忠の指導を受け洋画を学び始めました。その後、渡仏中に接したルノアールの作品に感動し、直接指導も受けています。帰国後、ルノアールの強い影響を受けた滞欧作品による個展が国内で大きな話題となり、一躍画壇の注目作家となります。装飾性を帯びた絢爛たる画風を展開し、同じ時代に活躍した安井曾太郎と共に「安井・梅原時代」を築き、日本の洋画壇を牽引しました。
梅原が桜島を描くきっかけは、1921(大正10)年の2度目の滞欧時に、ホテルで偶然出会った日本人からナポリのベスビオ火山が桜島に大変似ていると教えられたことであり、桜島を一度は訪れたいと考えていました。それから13年後の1934(昭和9)年に初めて鹿児島を訪れ、「東に面する桜島は朝青く夕は燃える様に赤い、噴煙は時に濃く時に淡い、朝など濃藍の空と山の間に白く見える事もある。空の色海の色緑の色の光り強く美しき事我国内地に此処に匹敵する処を自分は未だ知らない」とその感興を語っています。以後、1940年までに5回ほど鹿児島を訪れ、《桜島(赤)》や《桜島(青)》など時刻によって光が変化し、陰影や色彩が全く異なる情景を数多く描いています。梅原自身にとって、桜島連作の時期からその後の北京の連作にかけて画風が確立していくこともあり、梅原芸術を語るうえで欠かせないモチーフです。また、桜島そのものが魅力あるモチーフとなりうることを示した画家としても梅原は重要な存在であり、彼以降、多くの画家が桜島を描くようになります。
今回展示する素描や水彩のほとんどは、霧島から描いた桜島です。梅原は、霧島から桜島を望む風景も好んで描いており、これらは油彩画の下絵と思われるものもあり、今後検証していく上でも貴重な作品になります。(新収蔵品展での紹介解説より) |