六十余州名所図会・周防岩国錦帯橋

資料番号0104000186
大分類絵画
中分類版画・拓本
作者名安東広重
制作年(和暦)嘉永6年
制作年(西暦)1853
員数1枚
形状・技法一枚物
材質紙本多色刷
解説版元
 越平→越後屋平助(嘉永~安政)

枠外に
    越平○彫千之助□

歌川広重 寛政九年-安政五年
     (1797-1858)
 歌川豊広の門下。江戸時代八代洲河岸、定火消同心安藤源右衛門の子として生まれる。幼名、徳太郎、のち重右衛門。文政六年(1823)、祖父安藤十右衛門の子仲次郎に家督をゆずり、鉄蔵と改名し後見となる。豊広への入門は文化八年(1811)、広重と称す。号、一遊斎、一幽斎、一立斎、立斎、歌重等。
 はじめ役者絵から出発し、やがて美人画に移る。初期の美人画では「外と内姿八景」が秀れている。天保三年(1832)、三十六歳の時、正式に職をやめ、絵師として自立する。風景画は天保二年の「東都名所」(一幽斎落款)で注目をあつめ、ついで保永堂版「東海道五十三次」によりその名も不朽となった。以後「五十三次」を各種多量に発行し、また英泉のあとをうけ「木曾海道六拾九次」も完成、「近江八景」「京都名所」あるいは「本朝名所」、またおびただしい「江戸名所」シリーズ等、これら多くに風景画によって広重の描く世界は親しいものになっているが、風景画に平行し「花鳥魚介」の作品も作られていった。短冊型の花鳥図もまた愛すべき秀作が多い。他のほとんどの絵師が幕末の頽廃的なものを反映したのに対し、広重のみがそれに溺れず、気品のある画挌をしめしている。このほか肉筆美人および風景画、戯画、スケッチ等、見るべきものも多い。晩年、美人画がまた描かれるが、大作「名所江戸百景」や「雪月花」三枚続きのシリーズ等を遺して病没した。
     

安東広重(1797-1858)筆
アンドウヒロシゲ(1797-1858)ヒツ

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