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面縄港水中遺跡

大分類遺跡
所在地伊仙町面縄
公開解説 面縄港は文献史上に登場するのも町内で最も古く、1611年には薩摩藩との往来が記される(石上編2018)。1822年には島役人により港内の干瀬を取り除く大事業が実施された(吉満1895)。近世には砂糖蔵が設けられ、薩摩藩の船舶が往来するとともに、漂着や破船等もたびたび確認されている。現在も面縄港周辺に「船クラ」という地名が残されており、小字名からもかねてより船や港に関連する土地であったことが伺える(竿次帳1879)。
 面縄、古里の海浜部では、貝塚時代から近代まで様々な時代の遺物が採集された。最も多量に拾われる遺物は近現代陶磁器および瓦などであり、薩摩焼、褐釉陶器、沖縄産陶器、土製浮きも確認できる。続いて、カムィヤキや中国産青磁が散見される。土器は、室川下層式土器とみられるものが採集でき、その他敲石や螺外製敲打具などの石器や貝製品も見られた。面縄港周辺には貝塚時代の遺跡である面縄貝塚や東浜貝塚なども所在するため、これらの土器や石器、貝製品等の遺物は陸上遺跡由来とも考えられる。
 面縄では、港内から港外へ続く水路上および湾東西の広い範囲にかけて潜水調査を行なった。その結果、数点の遺物が採集され、6地点で鉄錨が確認された。水中から採集された遺物は主に、土器、カムィヤキ、中国産青磁、肥前産陶器、山川石製墓石などである。面縄において特筆される遺物は鉄錨であり、これまでに合計6基の鉄錨が発見されている。発見された鉄錨の位置を海底地形等深線図に重ねると、港外に続く水路上に集中すること、またその多くが岩礁際や岩礁溝に残されていることが分かる。1号鉄錨から4号鉄錨は、四爪鉄錨である。5号鉄錨は唐人錨とよばれるもので、6号鉄錨は主に近代の中大型船に搭載されるストックレスアンカーである。
 1号鉄錨から5号鉄錨は、港外に続く狭隘な水路上で確認されている。これらの鉄錨を搭載した船舶は港内へ続く水路上に停泊し、海浜部まで小舟を渡した状況が想定される。また、鉄錨が岩礁際や岩礁溝に集中して残されている状況からは、錨が岩礁に引っかかり、引き上げが不可能になったことが予想される。
公開解説引用徳之島三町教育委員会編 2021『徳之島の水中・沿岸遺跡分布調査報告書』徳之島三町教育委員会
伊仙町史編さん委員会 1978『伊仙町誌』
新里亮人編 2011『恩納城跡 畑地帯総合整備事業に伴う確認調査』伊仙町教育委員会
石上英一編 2018『奄美諸島編年史料 古琉球期編』下 吉川弘文館
吉満義志信 1895『徳之島事情』(名瀬市史編纂委員会編1964『名瀬市史資料』(復刻原本))
1879 竿次帳

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