風鐸

資料名(ヨミ)ふうたく
遺跡上総国分僧寺跡
解説上総国分僧寺跡で見つかった古代の風鐸です。南大門の外にあった633号土採り跡から、大量の瓦や土師器、須恵器とともに出土しました。
 風鐸は寺院建築の軒先に吊るされた飾りです。内側には風招(ふうしょう)という板をつけた、舌(ぜつ)を吊るし、風が吹くと音が鳴る仕組みとなっていました。梵鐘に似た形態で、上部には乳(にゅう)と呼ばれる小突起が並んでいます。身の横断面形は丸く、上面で直径約15~18cmに復元できます。
 上総国分寺から出土した風鐸は銅で鋳造されたもので、大小さまざまな破片が19点出土しています。形状の微妙な違いにより2個体以上あったと考えられます。素材については、鉛成分の理化学的な分析結果から、山口県長登(ながのぼり)銅山や、蔵目喜(くらめき)銅山の銅を原材料としたほかに、これに他の産地の銅を混ぜて製作した可能性が指摘されています。理化学的な分析結果からも風鐸が2種類存在したことが追認できます。
 633号土採り穴は9世紀中葉頃の遺物が集中していますが、特に上層は遺物収納箱約9,000箱分に及ぶ大量の瓦で、一気に埋まっています。これらの瓦は高温を受けて発泡、変形したものが多くあるほか、大量の焼土や炭化物も混じって堆積していました。このことから、9世紀中葉頃に国分寺の中心伽藍(がらん)で火災が発生し、その残骸を土採り穴に投棄したと推測できます。出土した風鐸もこの火災によって焼失した建物に使用されていたのでしょう。
 全国の多くの国分寺で地震や落雷によって火災が発生し、大きな損害を受けたことが『続日本紀』などの文献史料から明らかとなっていますが、上総国分寺についてこれらの記載はありません。しかし、9世紀中葉という時期には、貞観11年(869)に貞観地震のような大地震が発生しているほか、嘉祥元年(848)、元慶7年(883)の上総俘囚(ふしゅう)の乱のような蝦夷(えみし)の反乱があったことが文献史料に残されています。上総国分僧寺の火災も、これらの災害・事件のいずれかに関係しているのかもしれません。

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