「法花寺」銘墨書土器

資料名(ヨミ)ホッケジメイボクショドキ
遺跡上総国分尼寺跡
時代・時期平安時代
解説 国分寺は奈良時代の国家政策として、天平13年(741)年に聖武(しょうむ)天皇によって造営が命じられた国立寺院で、男性の寺である国分僧寺と、女性の寺である国分尼寺をセットとし、各国の中心地に建てられました。
 上総国分尼寺跡(かずさこくぶんにじあと)もそのうちの一つです。国分寺の役割は、国家の安寧(あんねい)を保持することでした。そのためには疫病(えきびょう)や戦乱など邪(よこしま)なものから国を護りつつ、同時にそれらの原因となった為政者の罪業(ざいごう)を消すことが重要とされました。よって護国経典のなかでも強い効力が期待された「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」を国分僧寺、滅罪の経典である「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」(法華経(ほけきょう))を国分尼寺の主要経典とし、双方が一体となって護国法要を行っていました。
 国分僧寺の正式名称が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺の正式名称が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」とされたのはそのためです。
 大和法華寺、甲斐国分尼寺跡、上総国分尼寺跡から「法花寺(ほっけじ)」と墨で書かれた土器が出土していることから、尼寺についてはそのように略して呼ばれていたことがわかります。
 写真の土器はロクロを用いて9世紀前葉に作られたもので、器の内外両面に「法花寺」と達者な筆づかいで書かれています。

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