【明戸伝承駒踊り】大日霊例大祭向山発表会
| 名称ヨミ | 【アケドデンショウコマオドリ】オオヒルメレイタイサイムカイヤマハッピョウカイ |
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| 時代 | 平成 |
| 解説 | 大日霊神社例大祭の向山(むかいやま)発表会で駒踊りを奉納し、神社入口の鳥居のところにある民家前で踊っている様子。町内の家々で踊り練り歩く。 平成2年では、駒(踊手)は7人とささらを持った子1人が一組で輪になり、それが三組一緒で演じていた。現在は、少子化により子供の人数は9人で、踊りの輪も、数年前までは、二つの輪を作りその輪を交換させ、最後は一つにさせるという見せ方であったが、今は、最初から一つの輪で演じている。 鳴物は、太鼓4人、篠笛4人、てんぴら(手平鐘)2人で構成されている。 明戸地区に古くから伝承される駒踊りは、途中で途絶えながらも、昭和58年頃、おおの駒踊りの継承者である故・大内田清作氏の指導を受け明戸児童館父母の会が中心となって復活させ、昭和63年には、地域全体で「明戸伝承活動駒踊り保存会」を組織し、現在は「明戸伝承活動駒踊り育成会」として活動している。主な活動として、大日霊神社例大祭での向山発表会のほか、6月に久慈平岳(馬の神様が祭られている)の山開きの際に行われている「芸能交流祭」で披露されている。 ~大野に伝承された駒踊りの由来~ 大野を含む旧八戸南部地方では古来、南部駒の馬産地として有名であり、「駒踊り」は、馬の調教に由来するといわれ、馬と人との共生の文化に根ざしたものであるとされている。 「久慈街道」がひらけるとともに、隣村の人馬、物資の集散地となり、馬産とともに発展してきたともいえる。 文化・文政のころ大野の明戸に住む長者「種屋、堀米重三郎氏」は、七里四方の山林畑を所有していたと言われた豪農であり、全盛期には牛馬一千頭を飼育していたといわれ、また塩問屋・木綿商・造酒屋さらにはたたら製鉄も手がけるなど豪商でもあったので仙台藩は勿論のこと遠く江戸との取引も行われていた。その交易の際に江戸の子どもたちの間で流行していた馬頭のついた竹馬という玩具がもたらされ、各自がこれを真似て作り、さらに変形させて行った。この遊びが集団化されたのが南部(大野)の駒踊りであるといわれている。のが南部(大野)の駒踊りの特徴は、「七頭一手綱」という南部流騎馬団体調教の型をそのまま継承しており、僅かに子供らしい遊戯が加わっているところである。 囃子方は馬を調教する農民の馬丁そのものであったという。 また堀米重三郎氏は、自邸前の向山(むかいやま)に大日霊(おおひるめ)神社を建立しており、現在も、毎年8月15日に奉納され駒踊りが披露されている。(参考:芸分ひろの第10号より) 向山(むかいやま)とは、「種屋、堀米重三郎氏」が自邸前の「山を向かいの山」といったことから「向山(むかいやま)」とされた。『大野村誌第一巻民族編』によると、大日霊神社は、文化7年(1810)再興されたとある。文政7年(1824)7月には、堀米重三郎氏が、その向山に改築させたとある。その後、明治4年(1871)3月、堀米重三郎氏が民有地205坪を納め、諸社に列し国家管理となったといわれる。 |
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| 地域 | 明戸・上明戸・下明戸 |
| 資料ID | 253OMS_00020 |


