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【大渡えんぶり】つまご
名称ヨミ | 【オオワタリエンブリ】ツマゴ |
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時代 | 平成 |
解説 | 帯島小学校の大渡えんぶりの衣装(太夫用)の一つ。 つまごは、藁(わら)でできた履物で、雪靴である。寸法:長さ24cm×幅12cm。 えんぶりとは、「えぶり」という田んぼを平らにならすための道具を持ち、一年の五穀豊穣を願って、えぶりを手に、田をならすしぐさで田の神様を揺さぶり起こし、舞踊ったことから「えぶり→えんぶり」と呼ばれるようになったとされている。馬の頭を形どった烏帽子は、神様を呼ぶ「よりしろ」である。えんぶりは、青森県南部から岩手県北部にかけての旧八戸藩の農村部を中心に伝承されている。舞は烏帽子をかぶり地面を摺るような独特の仕草で舞うことから「摺る(する)」という。その舞は、稲作の一連の動作である種まきや田植えなどの動作を表現している。 えんぶりには、「ながえんぶり」と「どうさいえんぶり」があるが、「ながえんぶり」は古くからの形で、主役の太夫の烏帽子に赤い牡丹の花かウツギの花を飾り、ゆっくりと静かな動きの踊りである。「どうさいえんぶり」はそれぞれの太夫の烏帽子に「前髪」と呼ばれる五色のテープ状の紙を垂らして、激しく勇ましい動きの踊りである。大渡えんぶりの烏帽子は、五色の「前髪」があることから「どうさいえんぶり」であることがわかる。えんぶりは、舞手、太鼓、笛、手平鉦、唄い手、旗持ちの総勢15~30名で構成されている。舞手は太夫といわれ、三人一組あるいは五人一組の構成で成り立つが、大渡えんぶりは、三人一組で成り立っている。 大渡えんぶりは、元々、故灰玉平福蔵氏が、久慈市小久慈の柏木えんぶり組から手ほどきを受けて大正の終わりごろに始めたものであった。一般的にえんぶりは田の神への豊作祈願を意味するものであるが、当初大渡えんぶりは、地方巡業が盛んで演劇団の演目として披露されていた。戦後昭和25年に「内丸えんぶり組」の指導を受け復活させたものの再び中断した。それを故灰玉平福蔵氏が中心となり昭和50年3月に復活させた。昭和58年からは後継者対策として大野二中生徒に指導し、さらに60年帯島小生徒に、平成2年は帯島保育園に平成4年には久慈農林高校にと伝承活動の輪が広がり続けている。昭和59年から平成5年にかけて「八戸えんぶり豊年祈願祭」にも出演していた。 (引用、参考:福田重義著「岩手のえんぶり」) 現在の「大渡えんぶり保存会」は、長川敏彦会長が中心となり5年ほど前に再結成させたものである。洋野町の帯島保育園、帯島(たいしま)小学校、大野中学校の子供達に指導し伝承活動を行っている。 地域の伝統芸能継承の場として、1月15日の小正月には、帯島(たいしま)小学校校庭で教育実践運動帯島実践区主催の「どんと祭」が行われており、「大渡えんぶり」、「阿子木神楽」、「なもみ」とともに無病息災や五穀豊穣、家内安全を祈り舞が披露されいる。他にも、敬老会や学校の運動会など各イベントで演じられている。 |
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地域 | 阿子木・帯島・二ツ屋 |
資料ID | 250OMS_00104 |