有家神社

名称ヨミウゲジンジャ
時代安土桃山時代
解説有家神社は「新古今和歌集」の選者として知られている藤原有家(ありいえ)をまつる神社であると言い伝えられている。
青森県名川町の「斗賀観音御縁記」によれば、むかしむかし、京都の三条高倉という所に二条関白太政大臣藤原有家卿という、天皇の信頼も厚く「夢かよう道さえ絶えぬ呉竹の伏見の里の雪のした折」など詠い和歌にもすぐれた立派な公家がいた。
また、有家の弟たちも立派で、すばらしい兄弟だとたいへん評判になり、頼基は榊原家、政継は北島大臣、頼賢は一条大納言、政平は二条中将、兼光は権大納言、朝平は橘光家の養子にそれぞれなり隆盛をきわめていた。
しかし、いつの世にも人の幸せをねたむ者がいるもので、それをねたんだ因幡守平秋朝という邪悪な心をもった公家が、有家兄弟を陥れようとたくらみ、召し抱えていた5人の鬼どもに「有家をなんとか陥れたい。何か良い策はないか」と言ったところ、鬼どもは有家の字をまねた落書と板に天皇の姿を写し、その顔に三本のくぎを打ちつけて箱に入れ、箱の上には「君命没す」と書いて秋朝に渡した。それを秋朝は何食わぬ顔をして天皇にご覧に入れた。
果たして、天皇はたいそう驚き怒り、有家の弁明を聞かず有家兄弟をエゾ地へ流罪を申しつけた。
悪だくみにのせられた有家兄弟6人と家来124人は、血の涙を流して妻子と別れ、当時、都の人々に鬼が住むと恐れられていた遠いエゾ地をめざして都をあとにした。
有家たちは伊勢の国を経て、二見浦から船で波浪にもまれること49日にして、やっと安住でいそうな陸奥国の階上の浦に上陸。その上陸した所「侍浜(さむらいはま)」と名づけ、有家の有家を中心に、道仏に榊原頼基、野沢に北島政継、階上に橘頼賢、白浜に権大納言兼光、岡田に二条政平の6人(注・一条頼賢と橘朝平の2人が合わさって橘頼賢となっている)を配置し、橘頼賢の家来であった種市六郎兼高を種市(現在の城内)に住まわせた。有家は、今の有家神社の付近に御涼源庵という庵を結び、御涼源様として人々からたいへん崇拝されていた。
また、種市六郎兼高は農業に励み、夕方になると烏帽子直垂を輝かし忠勤したので、家来であったが特にその名をとって、この地を「種市」と名づけさせたと言う。
(種市町のむかし探訪)より
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地域有家
資料ID211TRS_00084

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