清光館跡地
| 名称ヨミ | セイコウカンアトチ |
|---|---|
| 時代 | 昭和(戦後) |
| 解説 | 日本民俗学の祖として有名な柳田国男が大正9年(1920)、貴族院書記長を辞め、新聞社の客員となり取材のため三陸海岸を徒歩で北上。小子内に入り「疲れた。もう泊まろうではないか」と言って小子内に一軒しかなかった清光館という小さな旅館に泊まったのが旧暦の8月15日であった。 そして、八戸線が八木まで開通した大正14年、八戸まで来た柳田国男は再び清光館を訪れたが、既に没落していたのを目の当たりにし、人生の無情を感じて書いたのが「清光館哀史」である。 (種市町のむかし探訪)より 大正八年と、同十四年の二度にわたり小子内を訪れた柳田国男先生が、その作品「雪国の春」でこの地を紹介している。その中の「浜の月夜」と「清光館哀史」は、その時代に漁で栄えた小子内の「清光館」という旅人宿を題材にしたものである。 「清光館」は、明治三十四年五月ごろ侍浜(現在の久慈市侍浜町)から菅原連次郎という人が小子内に移り住んで開業した宿の名である。 菅原さんは最初「旅人宿」と看板を掲げ旅人たちの宿をしていたが、間もなく「清光館」などどいうロマンチックな名に改められた。清光館の親戚でもある近くの酒屋の主人に看板を書いてもらったそうだ。清光館の名は、主人公の菅原連次郎さんのアイデアであった。 そのころの小子内浜にはたくさん鰹が揚ったので、菅原さんも鰹節の製造を始めた。その加工場は清光館のすぐ北にあった。 清光館の主人である連次郎さんに子どもがなかったので、明治四十三年一月に久慈町より喜三郎という人を養子に迎えた。(清光館哀史の「三十少し余りの小づくりな男だったように思う。」という亭主は、この菅原喜三郎さんのことである) 大正八年に連次郎さんが亡くなった。 そのころからだったろう。それまで毎年大量だった鰹も徐々に少なくなり、従って加工もできなくなったので喜三郎さんは船乗りになり、家族は養蚕を営みながら清光館の方もやっていた。・・・・・・・・・」 また、清光館哀史にでてくる「清光館は没落したのである。月日不詳の大暴風雨の日に、村から沖に出ていて還らなかった船がある。・・・・・・」うんぬんの亭主の遭難の模様について、次のように続けてくれた。 「喜三郎さんの乗った船は、コマーシといって漁船ではなく、荷物を運ぶ小さな運搬船で横手丸(十二トン位)といい船主は八木の人であった。普通は三人乗りなんだが、その航海には船主と二人だけで出帆したようである。 宮古方面から木炭を積んで八戸に行きたまたま年越しに近かったので、八戸から年越し前にもう一回・・・・・・と考えたのであろう。その日は朝から二、三メートルの西風が強く吹き、海は荒れ放題、とうとう大晦日を過ぎ、正月になっても船は小子内の浜へ帰って来なかった。 遭難した場所も日時も誰一人知らないまま月日は過ぎた。 それから数年後に一家は主人の生まれた地、久慈町へ引きあげた・・・・・・。」 役場の中野支所を訪ねたら、「喜三郎の失踪宣言、昭和三年十一月十八日死亡と看做され・・・・・・。」うんぬんと書いてある戸籍関係の書類の黄ばんだ色だけが月日の流れを物語るだけだった。 昭和四十五年に柳田先生の「清光館哀史」が高校三年の国語教科書に採用された。近年、清光館跡を訪れる人も多くなったと聞く。 (閉校記念誌 海の見える学校 洋野町立小子内小学校)より |
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| 地域 | 小子内 |
| 資料ID | 211TRS_00070 |


